の知らないものは、我々以上に賢いのだということ」を知っていた。そうして、自らの生活の設計に際しては、其の唯一の道――我々より賢いものの導いて呉れる其の唯一の途を、最も忠実、勤勉に歩むことにのみ全力を払い、他の一切は之を棄てて顧みなかった。俗衆の嘲罵《ちょうば》や父母の悲嘆をよそに彼は此の生き方を、少年時代から死の瞬間に至るまで続けた。「うすっぺら」で、「不誠実」で、「好色漢」で、「自惚《うぬぼれ》や」で、「がりがりの利己主義者」で、「鼻持のならぬ気取りや」の彼が、この書く[#「書く」に傍点]という一筋の道に於てのみは、終始一貫、修道僧の如き敬虔《けいけん》な精進を怠らなかった。彼は殆ど一日としてもの[#「もの」に傍点]を書かずには過ごせなかった。それは最早肉体的な習慣の一部だった。絶間なく二十年に亘って彼の肉体をさいなんだ肺結核、神経痛、胃痛も、此の習慣を改めさせることは出来なかった。肺炎と坐骨神経痛と風眼とが同時に起った時、彼は、眼に繃帯《ほうたい》を当て、絶対安静の仰臥《ぎょうが》のまま、囁《ささや》き声《ごえ》で「ダイナマイト党員」を口述して妻に筆記させた。
 彼は、死と余りに近
前へ 次へ
全177ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング