を、直ぐ其の場で文字に換えて見ることを練習した。其のノートには又彼の読んだ書物の中で「適切な表現」と思われたものが悉《ことごと》く書抜いてあった。諸家のスタイルを習得する稽古《けいこ》も熱心に行われた。一つの文章を読むと、それと同じ主題を種々違った作家の――或いはハズリットの、或いはラスキンの、或いはサア・トマス・ブラウンの――文体で以て幾通りにも作り直してみた。こうした習練は、少年時代の数年に亘って倦《う》まずに繰返された。少年期を纔《わず》かに脱した頃、未だ一つの小説をも、ものしない前に、彼は、将棋《チェス》の名人が将棋に於て有《も》つような自信を、表現術の上に有っていた。エンジニーアの血を享《う》けた彼は自己の途《みち》に於ても技術家としての誇を早くから抱いていた。
 彼は殆ど本能的に「自分は自分が思っている程、自分ではないこと」を知っていた。それから「頭は間違うことがあっても、血は間違わないものであること。仮令《たとえ》一見して間違ったように見えても、結局は、それが真の自己[#「真の自己」に傍点]にとって最も忠実且つ賢明なコースをとらせているのであること。」「我々の中にある我々
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