の音以外には何も聞えない。豪華な此の緑の世界の、何という寂しさ! 白昼の大きな沈黙の、何という恐ろしさ!
 突然遠くから或る鈍い物音と、続いて、短い・疳高《かんだか》い笑声とが聞えた。ゾッと悪寒が背を走った。はじめの物音は、何かの木魂《こだま》でもあろうか? 笑声は鳥の声? 此の辺の鳥は、妙に人間に似た叫をするのだ。日没時のヴァエア山は、子供の喚声に似た、鋭い鳥共の鳴声で充たされる。しかし、今の声は、それとも少し違っている。結局、音の正体は判らずじまいであった。
 帰途、ふと一つの作品の構想が浮んだ。この密林を舞台としたメロドラマである。弾丸の様に其の思いつきが(又、その中の情景の一つが)私を貫いたのだ。巧く纏まるかどうか分らないが、とにかく私は此の思いつきを暫く頭の隅に暖めて置こう。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が卵をかえす時のように。
 五時、夕食、ビーフシチウ・焼バナナ・パイナップル入クラレット。
 食後ヘンリに英語を教える。というよりも、サモア語との交換教授だ。ヘンリが毎日毎日、此の憂鬱《ゆううつ》な夕方の勉学に、どうして堪えられるか、不思議でならぬ。(今日は英語だ
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