光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人に嗤《わら》われまいとの懸念を忘れて、真に思う事のみを言い、真に欲する事のみを行う。」之が彼の新しい生活であった。
二
一八九〇年十二月×日
五時起床。美しい鳩色の明方。それが徐々に明るい金色に変ろうとしている。遥か北方、森と街との彼方に、鏡のような海が光る。但し、環礁の外は相変らず怒濤《どとう》の飛沫《しぶき》が白く立っているらしい。耳をすませば、確かに其の音が地鳴のように聞えて来る。
六時少し前朝食。オレンジ一箇。卵二箇。喰べながらヴェランダの下を見るともなく見ていると、直ぐ下の畑の玉蜀黍《とうもろこし》が二三本、いやに揺れている。おや[#「おや」に傍点]と思って見ている中に、一本の茎が倒れたと思うと、葉の茂みの中に、すうっ[#「すうっ」に傍点]と隠れて了った。直ぐに降りて行って畑に入ると、仔豚が二匹慌てて逃出した。
豚の悪戯《いたずら》には全く弱る。欧羅巴《ヨーロッパ》の豚のような、文明のために去勢されて了ったものとは、全然違う。実に野性的で活力的で逞《たくま》しく、美しいとさえ言っていいかも知れぬ。私は
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