うな工合で、今執筆中の「南洋だより」のような紀行文など、ゆっくり書いていられなくなる。随筆や詩(もっとも、私の詩は、いきぬき[#「いきぬき」に傍点]の為の娯楽の詩だから、話にならないが)を書いている時は、決して、こんな興奮に悩まされることはないのだが。
夕方、巨樹の梢と、山の背後とに、壮大な夕焼。やがて、低地と海との彼方から満月が出ると、此の地には珍しい寒さが始まった。誰一人眠れない。皆起出して、掛蒲団《かけぶとん》を探す。何時頃だったろう。――外は昼のように明るかった。月は正にヴァエア山巓《さんてん》に在った。丁度真西だ。鳥共も奇妙に静まり返っている。家の裏の森も寒さに疼《うず》いているように見えた。
六十度より降《くだ》ったに違いない。
三
明けて一八九一年の正月になると、旧宅、ボーンマスのスケリヴォア荘から、家財道具一切を纏《まと》めて、ロイドがやって来た。ロイドはファニイの息子で、最早二十五歳になっていた。
十五年前フォンテンブロオの森でスティヴンスンが始めてファニイに会った時、彼女は既に廿歳に近い娘と九歳になる男の児との母親であった。娘はイソベル、男の児は
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