ならぬ。今となっては、どうにもならない。私が手出をしない方が、彼等哀れな人々にとって、尚、何等かの役に立ち得るかも知れぬのだ。膿《うみ》がつぶれた後の後始末に就いて、我々が多少の援助をなし得る見込が、まだ、ほんの少しはありそうだから。
 無力な文人よ! 私は心を抑え、税を納めるような気持で原稿を書き継ぐ。頭の中には、ウィンチェスターを持った戦士の姿がちらつく。戦争は確かに大きな誘惑《アントレーヌマン》だ。

六月三十日
 ファニイとベルを連れ街へ下りる。国際|倶楽部《クラブ》で昼食。食後マリエの方角へ行って見る。先日とは違って今日はまるで静かだ。人のいない道。人のいない家。銃も見えぬ。アピアヘ帰って公安委員会に顔を出す。夕食後、舞踏会に一寸立寄り、疲れて帰宅。舞踏会場で聞く所によれば「ツシタラが今度の紛争の原因を作ったのだから、彼、及び彼の家族は当然罰せらるべきだ」と、レトヌの酋長が言っている由。
 外へ出て戦に加わろうという子供じみた誘惑に勝たねばならぬ。先ず家を守ること。
 アピアの白人連の中にも恐慌が起りつつある。いざといえば軍艦へ避難することになっているとか。目下、独艦二隻在港
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