かった。医者は、ただ、一時的の苦痛を鎮めて呉れるだけだ。医者は、患者の肉体の故障(一般人間の普通の生理状態と比較しての異常)を見出しはするが、其の肉体の障害と、その患者自身の精神生活との関聯《かんれん》とか、又、その肉体の故障が、其の患者の一生の大計算の中に於て、どの程度の重要さに見積らるべきか、などに就いては、何事をも知らぬのである。医者の言にのみ基づいて一生の計画を変更したりする如きは、何と唾棄すべき物質主義・肉体万能主義であるか! 「何はともあれ、汝の制作を始めよ。仮令《たとえ》、医者が汝に一年の、或いは一月の余生すら保証せずとも、怯《おそ》れずして仕事に向い、而して、一週間に為され得る成果を見よ。我々が意義ある労作を讃うべきは、完成されたる仕事に於てのみではない。」
 しかし、少しの過労が直ぐに応《こた》えて、倒れたり喀血《かっけつ》したりするのには、彼も閉口した。如何に彼が医者の言を無視しようとも、之ばかりはどうにもならぬ現実である。(けれども、おかしいことに、それが彼の制作を妨げるという実際的な不便を除いては、彼は、自分の病弱を、余り不幸と感じていないらしく見えた。喀血の中
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