イランドの急流のそれの様な気がして来る。自分は何の為に故郷を飛出して、こんな所迄流れて来たのか? 胸を締めつけられる様な思慕を以て遠くからそれを思出すために、か? ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今迄何か良き仕事を此の地上に残したか? と。之は怪しいものだ。何故又私は、そんな事を知りたいと望むのか? ほんの僅かの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子孫の骨も、みんな記憶から消えて了うだろうに。しかも――それでも人間は、ほんの暫しの間でも人々の心に自分の姿を留めて置きたいと考える。下らぬ慰みだ。…………
 こんな暗い気持にとりつかれるのも、過労と、「退潮《エッブ・タイド》」の苦しみとの結果だ。

六月××日
「退潮《エッブ・タイド》」は一時暗礁に乗上げたままにして置いて、「エンジニーアの家」の祖父の章を書上げた。
「退潮《エッブ・タイド》」は最悪の作品に非ざるか?
 小説という文学の形式――少くとも私の形式――が厭になって来た。
 医者に診て貰うと、少し休養をとれ、と云う。執筆を止めて軽い戸外運動だけにすることだ、と。

   十一

 医者というものを、彼は信用しな
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