つたな》い筆を加えるのを愧《は》じる気持からである。
災厄《さいやく》は、悟空《ごくう》の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々《えんえん》と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽《こま》のように、彼は、いつも全速力で廻《まわ》っていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図――目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実に明瞭《めいりょう》に、彼には見えるのだ。あるいは、その途《みち》以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜《やみよ》の発光文字のごとくに、必要な途《みち》だけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。我々|鈍根《どんこん》のものがいまだ茫然《ぼうぜん》として考えも纏《まと》まらないうちに、悟空はもう行動を始める。目的への最短の道に向かって歩き出しているのだ。人は、彼の武勇や腕力を云々《うんぬん》する。しかし、その驚くべき天才的な智慧《ちえ》については案外知らないようである。彼の場合には、その思慮や判断があまりにも渾然《こんぜん》と、腕力行為の中に溶け込んでいるのだ。
俺《おれ》は、悟空の文盲《もんもう》なことを知っている。かつて天上で弼馬温《ひつばおん》なる馬方《うまかた》の役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧《ちえ》と判断の高さとを何ものにも優《ま》して高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある。少なくとも、動物・植物・天文に関するかぎり、彼の知識は相当なものだ。彼は、たいていの動物なら一見してその性質、強さの程度、その主要な武器の特徴などを見抜いてしまう。雑草についても、どれが薬草で、どれが毒草かを、実によく心得ている。そのくせ、その動物や植物の名称(世間一般に通用している名前)は、まるで知らないのだ。彼はまた、星によって方角や時刻や季節を知るのを得意としているが、角宿《かくしゅく》という名も心宿《しんしゅく》という名も知りはしない。二十八|宿《しゅく》の名をことごとくそらんじていながら実物《ほんもの》を見分けることのできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目に一丁字《いっていじ》のないこの猴《さる》の前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。
悟空《ごくう》の身体の部分部分は――目も耳も口も脚も手も――みんないつも嬉《うれ》しくて堪《たま》らないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏の蜂《はち》のようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣な気魄《きはく》にもかかわらず、どこか遊戯《ゆうげ》の趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっして死ぬ覚悟[#「死ぬ覚悟」に傍点]なんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(妖怪《ようかい》を退治するなり、三蔵法師《さんぞうほうし》を救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。太上老君《たいじょうろうくん》の八卦炉《はっけろ》中に焼殺されかかったときも、銀角大王の泰山《たいざん》圧頂の法に遭《お》うて、泰山・須弥山《しゅみせん》・峨眉山《がびさん》の三山の下に圧《お》し潰《つぶ》されそうになったときも、彼はけっして自己の生命のために悲鳴を上げはしなかった。最も苦しんだのは、小雷音寺《しょうらいおんじ》の黄眉《こうび》老仏のために不思議な金鐃《きんにょう》の下に閉じ込められたときである。推《お》せども突けども金鐃は破れず、身を大きく変化させて突破ろうとしても、悟空の身が大きくなれば金鐃も伸びて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮まる始末で、どうにもしようがない。身の毛を抜いて錐《きり》と変じ、これで穴を穿《うが》とうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものを蕩《と》かして水と化するこの器の力で、悟空の臀部《でんぶ》のほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪に捕えられた師父《しふ》の身の上ばかりを気遣《きづか》っていたらしい。悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)やがて、天界から加勢に来た亢金竜《こうきんりょう》がその鉄のごとき角をもって満身の力をこめ、外から金鐃《きんにょう》を突通した。角はみごとに内
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