男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信に充《み》ちてくる。彼は火種《ひだね》。世界は彼のために用意された薪《たきぎ》。世界は彼によって燃されるために在る。
我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を促《うなが》す機縁だったりする。もともと意味を有《も》った外《そと》の世界が彼の注意を惹《ひ》くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界に空《むな》しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてを温《あたた》め、(ときに焦《こ》がす惧《おそ》れもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、渠《かれ》・悟空《ごくう》の眼にとって平凡|陳腐《ちんぷ》なものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。心の底から、溜息《ためいき》をついて、讃嘆《さんたん》するのである。これがほとんど毎朝のことだ。松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼を瞠《みは》るのも、この男である。
この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう! 全身|些《いささ》かの隙《すき》もない逞《たくま》しい緊張。律動的で、しかも一|分《ぶ》のむだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体が歓《よろこ》び・たけり・汗ばみ・跳《は》ねている・その圧倒的な力量感。いかなる困難をも欣《よろこ》んで迎える強靱《きょうじん》な精神力の横溢《おういつ》。それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵《ひまわり》よりも、鳴盛《なきさか》る蝉《せみ》よりも、もっと打込んだ・裸身の・壮《さか》んな・没我的な・灼熱《しゃくねつ》した美しさだ。あのみっともない[#「みっともない」に傍点]猿《さる》の闘っている姿は。
一《ひと》月ほど前、彼が翠雲《すいうん》山中で大いに牛魔《ぎゅうま》大王と戦ったときの姿は、いまだにはっきり[#「はっきり」に傍点]眼底に残っている。感嘆のあまり、俺《おれ》はそのときの戦闘経過を詳しく記録に取っておいたくらいだ。
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……牛魔王一匹の香※[#「けものへん+章」、第3水準1−87−80]《こうしょう》と変じ悠然《ゆうぜん》として草を喰《くら》いいたり。悟空《ごくう》これを悟り虎《とら》に変じ駈《か》け来たりて香※[#「けものへん+章」、第3水準1−87−80]を喰わんとす。牛魔王急に大豹《だいひょう》と化して虎を撃たんと飛びかかる。悟空これを見て※[#「けものへん+俊のつくり」、第3水準1−87−75]猊《からしし》となり大豹目がけて襲いかかれば、牛魔王、さらばと黄獅《きじし》に変じ霹靂《へきれき》のごとくに哮《ほえたけ》って※[#「けものへん+俊のつくり」、第3水準1−87−75]猊《からしし》を引裂かんとす。悟空このとき地上に転倒すと見えしが、ついに一匹の大象となる。鼻は長蛇《ちょうだ》のごとく牙《きば》は筍《たかんな》に似たり。牛魔王堪えかねて本相を顕《あら》わし、たちまち一匹の大|白牛《はくぎゅう》たり。頭は高峯《こうほう》のごとく眼は電光のごとく双角は両座の鉄塔に似たり。頭より尾に至る長さ千余丈、蹄《ひづめ》より背上に至る高さ八百丈。大音に呼ばわって曰《いわ》く、※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《なんじ》悪猴《わるざる》今我をいかんとするや。悟空また同じく本相を顕《あら》わし、大喝《だいかつ》一声するよと見るまに、身の高さ一万丈、頭《かしら》は泰山《たいざん》に似て眼は日月のごとく、口はあたかも血池にひとし。奮然鉄棒を揮《ふる》って牛魔王を打つ。牛魔王|角《つの》をもってこれを受止め、両人半山の中にあってさんざんに戦いければ、まことに山も崩れ海も湧返《わきかえ》り、天地もこれがために反覆《はんぷく》するかと、すさまじかり。……
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なんという壮観だったろう! 俺《おれ》はホッと溜息《ためいき》を吐いた。そばから助太刀《すけだち》に出ようという気も起こらない。孫行者《そんぎょうじゃ》の負ける心配がないからというのではなく、一|幅《ぷく》の完全な名画の上にさらに拙《
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