悟浄歎異
―沙門悟浄の手記―
中島敦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)昼餉《ひるげ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二、三歩|匍《は》うと

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「けものへん+章」、第3水準1−87−80]
−−

 昼餉《ひるげ》ののち、師父《しふ》が道ばたの松の樹の下でしばらく憩《いこ》うておられる間、悟空《ごくう》は八戒《はっかい》を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
「やってみろ!」と悟空が言う。「竜《りゅう》になりたいとほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]思うんだ。いいか。ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]だぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄《す》ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことん[#「とことん」に傍点]の・本気にだぜ。」
「よし!」と八戒は眼を閉じ、印《いん》を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将《あおだいしょう》が現われた。そばで見ていた俺《おれ》は思わず吹出してしまった。
「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱《しか》った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺《おれ》は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。
「だめだめ。てんで気持が凝《こ》らないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」
 よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇《にしきへび》には違いないが、小さな前肢《まえあし》が生えていて、大蜥蜴《おおとかげ》のようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨ膨《ふく》れており、短い前肢で二、三歩|匍《は》うと、なんとも言えない無恰好《ぶかっこう》さであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。
「もういい。もういい。止《や》めろ!」と悟空が怒鳴る。頭を掻《か》き掻き八戒が現われる。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。
八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむき[#「ひたむき」に傍点]に。
悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。
八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。
悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方[#「やり方」に傍点]じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。
[#ここで字下げ終わり]

 悟空によれば、変化《へんげ》の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとく己《おのれ》の気持を純一|無垢《むく》、かつ強烈なものに統一する法を学ぶに在《あ》る。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。変化《へんげ》の術が人間にできずして狐狸《こり》にできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事《さじ》を有《も》たず、したがってこの統一が容易だからである、云々《うんぬん》。

 悟空《ごくう》は確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこの猿《さる》を見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、赭顔《あからがお》・鬚面《ひげづら》のその容貌《ようぼう》を醜いと感じた俺《おれ》も、次の瞬間には、彼の内から溢《あふ》れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。その面魂《つらだましい》にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと溢《あふ》れている。この男は嘘《うそ》のつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング