まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角に纏《まと》いついて、少しの隙《すき》もない。風の洩《も》るほどの隙間《すきま》でもあれば、悟空は身をけし[#「けし」に傍点]粒と化して脱《のが》れ出るのだが、それもできない。半ば臀部は溶けかかりながら、苦心|惨憺《さんたん》の末、ついに耳の中から金箍棒《きんそうぼう》を取出して鋼鑚《きり》に変え、金竜の角の上に孔《あな》を穿《うが》ち、身を芥子粒《けしつぶ》に変じてその孔《あな》に潜《ひそ》み、金竜に角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなった己《おのれ》の尻《しり》のことを忘れ、すぐさま師父《しふ》の救い出しにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危ない」とか「もうだめだ」とか、感じたことがないのだろう。この男は、自分の寿命とか生命とかについて考えたこともないに違いない。彼の死ぬときは、ポクンと、自分でも知らずに死んでいるだろう。その一瞬前までは溌剌《はつらつ》と暴れ廻《まわ》っているに違いない。まったく、この男の事業は、壮大という感じはしても、けっして悲壮な感じはしないのである。

 猿《さる》は人真似《ひとまね》をするというのに、これはまた、なんと人真似をしない猴《さる》だろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分に納得《なっとく》できないかぎりは。
 因襲《いんしゅう》も世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。

 悟空《ごくう》の今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去《すぎさ》ったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度《つど》、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これは判《わか》る。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこの猴《さる》は有《も》っているのだ。

 ただし、彼にもけっして忘れることのできぬ怖《おそ》ろしい体験がたった[#「たった」に傍点]一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさを俺《おれ》に向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めて釈迦如来《しゃかにょらい》に知遇《ちぐう》し奉ったときのことだ。
 そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲《ぐうしほうん》の履《くつ》を穿《は》き鎖子《さし》黄金の甲《よろい》を着け、東海竜王《とうかいりゅうおう》から奪った一万三千五百|斤《きん》の如意金箍棒《にょいきんそうぼう》を揮《ふる》って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙《れっせん》の集まる蟠桃会《はんとうえ》を擾《さわ》がし、その罰として閉じ込められた八卦炉《はっけろ》をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙《な》ぎ倒し、三十六員の雷将を率《ひき》いた討手《うって》の大将|祐聖真君《ゆうせいしんくん》を相手に、霊霄殿《りょうしょうでん》の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉《かしょう》・阿難《あなん》の二|尊者《そんじゃ》を連れた釈迦牟尼如来《しゃかむににょらい》がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞《ふさ》がって闘いを停《と》めたもうた。悟空が怫然《ふつぜん》として喰《く》ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張《いば》っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修《ず》しえたというのか?」悟空|曰《いわ》く「東勝神州|傲来国《ごうらいこく》華果山《かかざん》に石卵より生まれたるこの俺《おれ》の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生《ふろうちょうせい》の法を修《ず》し畢《おわ》り、雲に乗り風に御《ぎょ》し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来|曰《いわ》く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌《てのひら》に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空《ごくう》は、いきなり如来《にょらい》の掌《てのひら》の上に跳《おど》り上がった。「俺《おれ》は通力《つうりき》によって八十万里を飛行《ひぎょう》するのに、※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《なんじ》の掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらず※[#「角+力」、第3水準1−91−90]斗雲《きん
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