とうん》に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠《かれ》はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊《せいてんたいせいとうしいちゆう》と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々《とくとく》として言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしを留《とど》めてきたぞ!」「愚かな山猿《やまざる》よ!」と如来は笑った。「汝《なんじ》の通力がそもそも何事を成しうるというのか? 汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。嘘《うそ》と思わば、この指を見るがよい。」悟空が異《あや》しんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだ墨痕《ぼっこん》も新しく、斉天大聖到此一遊と己《おのれ》の筆跡で書き付けてある。「これは?」と驚いて振仰《ふりあお》ぐ如来の顔から、今までの微笑が消えた。急に厳粛《げんしゅく》に変わった如来の目が悟空をキッと見据《みす》えたまま、たちまち天をも隠すかと思われるほどの大きさに拡《ひろ》がって、悟空の上にのしかかってきた。悟空は総身《そうみ》の血が凍るような怖ろしさを覚え、慌《あわ》てて掌の外へ跳《と》び出そうとしたとたんに、如来が手を翻《ひるがえ》して彼を取抑え、そのまま五指を化して五行山《ごぎょうざん》とし、悟空をその山の下に押込め、※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]嘛※[#「口+尼」、第4水準2−3−73]叭※[#「口+迷」、174−17]吽《おんまにはつめいうん》の六字を金書して山頂に貼《は》りたもうた。世界が根柢《こんてい》から覆《くつがえ》り、今までの自分が自分でなくなったような昏迷《こんめい》に、悟空はなおしばらく顫《ふる》えていた。事実、世界は彼にとってそのとき以来一変したのである。爾後《じご》、餓《う》うるときは鉄丸を喰《くら》い、渇《かっ》するときは銅汁を飲んで、岩窟《がんくつ》の中に封じられたまま、贖罪《しょくざい》の期の充《み》ちるのを待たねばならなかった。悟空は、今までの極度の増上慢《ぞうじょうまん》から、一転して極度の自信のなさに堕《お》ちた。彼は気が弱くなり、ときには苦しさのあまり、恥も外聞も構わずワアワアと大声で哭《な》いた。五百年|経《た》って、天竺《てんじく》への旅の途中にたまたま通りかかった三蔵法師《さんぞうほうし》が五行山頂の呪符《じゅふ》を剥《は》がして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のは嬉《うれ》し涙であった。悟空が三蔵に随《したが》ってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。
 さて、今にして思えば、釈迦牟尼《しゃかむに》によって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さく凝集《ぎょうしゅう》する必要があったのである。だが、凝固《ぎょうこ》して小さくなった現在の悟空が、俺《おれ》たちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!

 三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化《へんげ》の術ももとより知らぬ。途《みち》で妖怪《ようかい》に襲われれば、すぐに掴《つか》まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉《ひと》しく惹《ひ》かれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空《ごくう》も八戒《はっかい》もただなんとなく師父《しふ》を敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹《ひ》かれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴《とうと》さとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師に在《あ》るものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったん己《おのれ》の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際《こんりんざい》、正しく美しい生活を真面目《まじめ》に続けていくことができないに違いない。あの弱い師父《しふ》の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さが外《そと》の弱さに包まれているところに、師父の魅力が
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