たまま、彼が誰であるかを、しきりに思い出そうと努めていた。
 五六歩あるいた時、その男は私に嗄《しわが》れた声で、――私の記憶の中には、どこにも、その様な声はなかった――「煙草を一本くれ」と言い出した。私はポケットを探して、半分程空になったバットの箱を彼の前に差出した。彼はそれを受取り、片方の手を自分のポケットに突込んだかと思うと、急に妙な顔をして、そのバットの箱を眺め、それから私の顔を見た。暫《しばら》くそうして馬鹿のような顔をして、バットと私とを見比べた後、彼は黙って、私が与えたバットの箱をそのまま私に返そうとした。私は黙ってそれを受取りながらも、何だか狐につままれたような腑に落ちない気持と、又、一寸、馬鹿にされたような腹立たしさの交った気持で、彼の顔を見上げた。すると、彼は、その時初めて、薄笑いらしいものを口の端に浮かべて斯《こ》う独り言のように言った。
 ――言葉で記憶していると、よくこんな間違をする。――
 勿論、私には何の事か、のみこめなかった。が、今度は彼は、極めて興味ある事柄を話すような、勢こんだせかせか[#「せかせか」に傍点]した調子で、その説明を始めた。
 それによると、彼が私からバットを受取って、さて、燐寸《マッチ》を取出すために右手をポケットに入れた時、彼はそこに矢張り同じ煙草の箱を探りあてたのだという。その時に、彼はハッとして、自分の求めていたものが煙草でなくて燐寸であったことに気がついた。そこで彼は、自分が何故、この馬鹿馬鹿しい間違いをしたかを考えて見た。単なる思い違いと云ってしまえば、それまでだが、それならば、其の思い違いは何処《どこ》から来たか。それを色々考えた末、彼はこう結論したのだ。つまり、それは、彼の記憶が悉《ことごと》く言葉によったためであると。彼ははじめ自分に燐寸がないのを発見した時、誰かに逢ったら燐寸を貰おうと考え、その考えを言葉として、「自分は他人《ひと》から燐寸を貰わねばならぬ」という言葉として、記憶の中にとって置いた。燐寸がほんとう[#「ほんとう」に傍点]に欲しいという実際的な要求の気持として、全身的要求の感覚――へんな言葉だが、此の場合こう云えば、よく解るだろう、と、彼はその時、そう附加えた。――として記憶の中に保存して置かなかった。これがあの間違いのもと[#「もと」に傍点]なのだ。感覚とか感情ならば、うすれることはあっても混同することはないのだが、言葉や文字の記憶は正確なかわりに、どうかすると、とんでもない別の物に化けていることがある。彼の記憶の中の「燐寸」という言葉、もしくは文字は、何時の間にかそれと関係のある「煙草」という言葉、もしくは文字に置換えられて了っていたのだ。……彼はそう説明した。それが、此の発見がいかにも面白くて堪《たま》らないというような話ぶりで、おまけに最後に、こういう習慣はすべて概念ばかりで物を考えるようになっている知識人の通弊だ、という思い掛けない結論まで添えた。実をいうと、私は、その間、彼自身は非常に興味を感じているらしい此の問題の説明に、あまり耳を傾けてはいなかった。ただ、そのセカセカした早口なしゃべり方を聞きながら、確かに、これは(声こそ違え)私の記憶の何処かにある癖だ、と思い、しきりに、その誰であったかを思い出そうとしていた。が、丁度、極めてやさしい字が仲々思い出せない時のように、もうすっかり解って了ったような気がしながら、渦巻の外側を流れる芥《あくた》の如く、ぐるぐる問題のまわりを廻ってばかりいて、仲々その中心にとび込んで行けないのだ。
 その中に私達は本郷三丁目の停留所まで来た。彼がそこで立止ったので、私もそれに倣《なら》った。彼は電車に乗るつもりかも知れない。私達は並んで立ったまま、眺めるともなく、前の薬局の飾窓を眺めていた。彼はそこに何か見付けたらしく、大胯《おおまた》に其の窓の前に歩いて行った。私も彼について行って覗《のぞ》いて見た。それは新発売の性器具の広告で、見本らしいものが黒い布の上に並べられていた。彼はその前に立って、微笑を浮かべて暫く覗いていた。その彼を、私は横に立って眺めていた。と、その時、彼のそのニヤニヤした薄笑いを横あいから覗き込んだ時、突然、私はすっかり思い出した。今まで私の頭の中で、渦巻のまわりの塵のようにぐるぐる廻ってばかりいた私の記憶が、その時、忽ち渦巻の中心に飛び込んだのだ。皮肉げに脣を曲げたあの薄笑い。眼鏡を掛けてはいるが、その奥からのぞいている細い眼。お人良しと猜疑《さいぎ》とのまざりあった其の眼付。――おお、それが彼以外の誰だろうか。虎に殺され損った勢子《せこ》を足で蹴返していまいましげに見下した彼以外の誰の眼付だろうか。その瞬間、一時に私は、虎狩や熱帯魚や発火演習などをごたごた[#「ごたごた」に傍点
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