虎狩
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)堪《たま》るものか
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八字|髭《ひげ》でも
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぬくて[#「ぬくて」に傍点
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一
私は虎狩の話をしようと思う。虎狩といってもタラスコンの英雄タルタラン氏の獅子狩のようなふざけたものではない。正真正銘の虎狩だ。場所は朝鮮の、しかも京城から二十里位しか隔たっていない山の中、というと、今時そんな所に虎が出て堪《たま》るものかと云って笑われそうだが、何しろ今から二十年程前迄は、京城といっても、その近郊東小門外の平山牧場の牛や馬がよく夜中にさらわれて行ったものだ。もっとも、これは虎ではなく、豺(ぬくて[#「ぬくて」に傍点])という狼《おおかみ》の一種にとられるのであったが、とにかく郊外の夜中の独り歩きはまだ危険な頃だった。次のような話さえある。東小門外の駐在所で、或《あ》る晩巡査が一人机に向っていると、急に恐ろしい音を立ててガリガリと入口の硝子《ガラス》戸を引掻くものがある。びっくりして眼をあげると、それが、何と驚いたことに、虎だったという。虎が――しかも二匹で、後肢《あとあし》で立上り、前肢の爪で、しきりにガリガリやっていたのだ。巡査は顔色を失い、早速部屋の中にあった丸太棒を閂《かんぬき》の代りに扉にあてがったり、ありったけの椅子や卓子を扉の内側に積み重ねて入口のつっかい[#「つっかい」に傍点]棒にしたりして、自身は佩刀《はいとう》を抜いて身構えたまま生きた心地もなくぶるぶる顫《ふる》えていたという。が、虎共は一時間ほど巡査の胆《きも》を冷させたのち、やっと諦めて何処《どこ》かへ行って了《しま》った、というのである。此《こ》の話を京城日報で読んだ時、私はおかしくておかしくて仕方がなかった。ふだん、あんなに威張っている巡査が――その頃の朝鮮は、まだ巡査の威張れる時代だった。――どんなに其《そ》の時はうろたえて、椅子や卓子や、その他のありったけのがらくた[#「がらくた」に傍点]を大掃除の時のように扉の前に積み上げたかを考えると、少年の私はどうしても笑わずにはいられなかった。それに、そのやって来た二匹連れの虎というのが――後肢で立上ってガリガリやって巡査をおどしつけた其の二匹の虎が、どうしても私には本物の虎のような気がしなくて、脅《おびやか》された当の巡査自身のように、サアベルを提《さ》げ長靴でもはき、ぴんと張った八字|髭《ひげ》でも撫上げながら、「オイ、コラ」とか何とか言いそうな、稚気満々たるお伽話《とぎばなし》の国の虎のように思えてならなかったのだ。
二
さて、虎狩の話の前に、一人の友達のことを話して置かねばならぬ。その友達の名は趙大煥といった。名前で分るとおり、彼は半島人だった。彼の母親は内地人だと皆が云っていた。私はそれを彼の口から親しく聞いたような気もするが、或いは私自身が自分で勝手にそう考えて、きめこんでいただけかも知れぬ。あれだけ親しく付合っていながら、ついぞ私は彼のお母さんを見たことがなかった。兎《と》に角《かく》、彼は日本語が非常に巧《たく》みだった。それに、よく小説などを読んでいたので、植民地あたりの日本の少年達が聞いたこともないような江戸前の言葉さえ知っていた位だ。で、一見して彼を半島人と見破ることは誰にも出来なかった。趙と私とは小学校の五年の時から友達だった。その五年の二学期に私が内地から龍山の小学校へ転校して行ったのだ。父親の仕事の都合か何かで幼い時に度々《たびたび》学校をかわったことのある人は覚えているだろう。ちがった学校へはいった初めの中《うち》ほど厭《いや》なものはない。ちがった習慣、ちがった規則、ちがった発音、ちがった読本の読み方。それに理由もなく新来者を苛《いじ》めようとする意地の悪い沢山の眼。全く何一つするにも笑われはしまいかと、おどおどするような萎縮した気持に追い立てられてしまう。龍山の小学校へ転校してから二三日|経《た》ったある日、その日も読方の時間に、「児島高徳」のところで、桜の木に書きつけた詩の文句を私が読み始めると、皆がどっと笑い出してしまった。赧《あか》くなりながら一生懸命に読み直せば読み直すほど、みんなは笑いくずれる。しまいには教師までが口のあたりに薄笑いを浮かべる始末だ。私はすっかり厭な気持になって了《しま》って、その時間が終ると大急ぎで教室を抜け出し、まだ一人も友達のいない運動場の隅っこに立ったまま、泣出したい気持でしょんぼり空を眺めた。今でも覚えているが、その日は猛烈な砂埃《すなぼこり》が深い霧のようにあたりに立罩《たちこ》め、太陽はそのうす濁った砂の霧の奥
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