から、月のようなうす黄色い光をかすかに洩らしていた。あとで解ったのだけれども、朝鮮から満洲にかけては一年に大抵一度位はこのような日がある。つまり蒙古《もうこ》のゴビ砂漠に風が立って、その砂塵が遠く運ばれてくるのだ。その日、私は初めて見るその物すさまじい天候に呆気《あっけ》に取られて、運動場の界《さかい》の、丈《たけ》の高いポプラの梢《こずえ》が、その白い埃の霧の中に消えているあたりを眺めながら、直ぐにじゃりじゃり[#「じゃりじゃり」に傍点]と砂の溜ってくる口から、絶えずペッペッと唾を吐き棄てていた。すると突然横合から、奇妙な、ひきつった、ひやかすような笑いと共に、「ヤアイ、恥ずかしいもんだから、むやみと唾ばかり吐いてやがる。」という声が聞えた。見ると、割に背の高い、痩せた、眼の細い、小鼻の張った一人の少年が、悪意というよりは嘲笑に充ちた笑いを見せながら立っていた。成程《なるほど》、私が唾を吐くのは確かに空中の埃のせいではあったが、そういわれて見ると、また先程の「天|勾践《こうせん》を空しゅうする勿《なか》れ」の恥ずかしさや、一人ぼっちの間《ま》の悪さ、などを紛《まぎ》らすために必要以上にペッペッと唾を吐いていたことも確かに事実のようである。それを指摘された私は、更に先程の二倍も三倍もの恥ずかしさを一時に感じて、カッとすると、前後の見境もなしに、その少年に向ってベソ[#「ベソ」に傍点]を掻きながら跳びかかって行った。正直にいうと、何も私はその少年に勝てると思って跳びかかって行ったわけではない。身体の小さい弱虫の私は、それまで喧嘩《けんか》をして勝ったためしがなかった。だから、その時も、どうせ負ける覚悟で、そしてそれ故に、もう半分泣面をしながら跳びかかって行ったのだ。所が、驚いたことに、私が散々叩きのめされるのを覚悟の上で目をつぶって向って行った当の相手が案外弱いのだ。運動場の隅の機械体操の砂場に取組み合って倒れたまま暫《しばら》く揉《も》み合っている中に、苦もなく私は彼を組敷くことが出来た。私は内心やや此《こ》の結果に驚きながらも、まだ心を許す余裕はなく、夢中で目をつぶったまま相手の胸ぐらを小突きまわしていた。が、やがて、あまり相手が無抵抗なのに気がついて、ひょいと目をあけて見ると、私の手の下から相手の細い目が、まじめなのか笑っているのか解らない狡《ずる》そうな表情を浮かべて見上げている。私はふと何かしら侮辱を感じて急に手を緩《ゆる》めると、すぐに立上って彼から離れた。すると彼も続いて起き上り、黒いラシャ服の砂を払いながら、私の方は見ずに、騒ぎを聞いて駈付けて来た他の少年達に向って、きまり悪そうに目尻をゆがめて見せるのだ。私は却《かえ》って此方《こちら》が負けでもしたような間《ま》の悪さを覚えて、妙な気持で教室に帰って行った。
 それから二三日たって、その少年と私とは学校の帰りに同じ道を並んで歩いて行った。その時彼は自分の名前が趙大煥であることを私に告げた。名前をいわれた時、私は思わず聞き返した。朝鮮へ来たくせに、自分と同じ級に半島人がいるということは、全く考えてもいなかったし、それに又その少年の様子がどう見ても半島人とは思えなかったからだ。何度か聞き返して、彼の名がどうしても趙であることを知った時、私はくどくど[#「くどくど」に傍点]聞き返して悪いことをしたと思った。どうやらその頃私はませた少年だったらしい。私は相手に、自分が半島人だという意識を持たせないように――これは此の時ばかりではなく、その後一緒に遊ぶようになってからもずっと――努めて気を遣《つか》ったのだ。が、その心遣いは無用であったように見えた。というのは、趙の方は自分で一向それを気にしていないらしかったからだ。現に自ら進んで私にその名を名乗った所から見ても、彼がそれを気に掛けていないことは解ると私は考えた。併《しか》し実際は、これは、私の思い違いであったことが解った。趙は実は此の点を――自分が半島人であるということよりも、自分の友人達がそのことを何時も意識して、恩恵的に自分と遊んでくれているのだ、ということを非常に気にしていたのだ。時には、彼にそういう意識を持たせまいとする、教師や私達の心遣いまでが、彼を救いようもなく不機嫌にした。つまり彼は自ら其の事にこだわっているからこそ、逆に態度の上では、少しもそれに拘泥《こうでい》していない様子を見せ、ことさらに自分の名を名乗ったりなどしたのだ。が、この事が私に解ったのは、もっとずっと後になってからのことだ。
 とにかく、そうして私達の間は結ばれた。二人は同時に小学校を出、同時に京城の中学校に入学し、毎朝一緒に龍山から電車で通学することになった。

       三

 その頃――というのは小学校の終り頃から中学校の初めに
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