ス洋の風に鳴っていた。潮の退いたあとの湿った砂を踏んで行く中に、先刻から私の前後左右を頻《しき》りに陽炎《かげろう》のような・あるいは影のようなものがチラチラ走っていることに気が付いた。蟹《かに》なのである。灰色とも白とも淡褐色ともつかない・砂とほとんど見分けの付かない・ちょっと蝉の脱《ぬ》け殻《がら》のような感じの・小さな蟹が無数に逃げ走るのである。南洋には、マングローブ地帯に多い・赤と青のペンキを塗ったような汐招き蟹なら到る所にいるが、この淡い影のような蟹は珍しい。初めてパラオ本島のガラルド海岸でこれを見た時、一つ一つの蟹の形は見えずに、ただ、自分の周囲の砂がチラチラチラチラと崩れ流れて走るような気がして、幻でも見ているような錯覚に囚《とら》えられたものであった。今この島でそれを二度目に見るのである。私が立停ってしばらくじっ[#「じっ」に傍点]としていると、蟹どもの逃走も止む。素速く走る灰色の幻も、フッと消えるのである。この島の人間どもが死絶えた(それはもうほとんど確定的な事実なのだ)後は、この影のような・砂の亡霊のような小蟹どもが、この島を領するのであろうか。灰白色の揺動く幻だけ
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