レにあけた隙間から(H氏は南洋に十余年住んでいる中に、すっかり暑さを感じなくなってしまい、朝晩は寒くて窓をしめずにはいられないのである。)若い女の声が「はいってもいい?」と聞いた。オヤ、この土俗学者先生、なかなか油断がならないな、と驚いている中に、扉をあけてはいって来たのが、内地人ではなく、堂々たる体躯の島民女だったので、もう一度私は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏は今パラオ地方の古譚詩《こたんし》の類を集めて、それを邦訳《ほうやく》しているのだが、その女は――マリヤンは、日を決めて一週に三日だけその手伝いをしに来るのだという。その晩も、私を側に置いて二人はすぐに勉強を始めた。
 パラオには文字というものが無い。古譚詩は凡てH氏が島々の故老に尋ねて歩いて、アルファベットを用いて筆記するのである。マリヤンは先ず筆記されたパラオ古譚詩のノートを見て、其処に書かれたパラオ語の間違《まちがい》を直す。それから、訳しつつあるH氏の側にいて、H氏の時々の質問に答えるのである。
「ほう、英語が出来るのか」と私が感心すると、「そりゃ、得意なもんだよ。内地の女学校にいたんだものね
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