トいるくせに、視線を向けようともしないのである。

 次の朝、即ちS島を出てから二日目の朝、船はようやくT島に着いた。この航路の終点でもあり、ナポレオン少年の新しい配流地でもある。堡礁内の浅い緑色の水、真白い砂と丈高い椰子樹の遠望、汽船目懸けて素速く漕寄せて来る数隻のカヌー、そのカヌーから船に上って来ては船員の差出す煙草や鰯《いわし》の缶詰などと自分らの持ち来たった鶏や卵などとを交換しようとする島民ども、さては、浜に立って珍しげに船を眺める島人ら。それらは何処の島も変りはない。
 迎えの独木舟が着いた時、巡警は、まだ同じ姿勢で椰子バスケットの間に寝ころがっているナポレオン(彼はとうとう丸二日間、強情に一口も飲食しなかったのだそうだ)にその旨を告げ、足の縄を解いて引起した。ナポレオンは大人しく立上ったが、巡警がなおもその腕を取って警官の方へ引張ろうとした時、憤然とした面持で、島民巡警を不自由な肱《ひじ》で突き飛ばした。突き飛ばされた巡警の愚鈍そうな顔に、瞬間、驚きと共に一種の怖れの表情が浮かんだのを私は見逃さなかった。ナポレオンは独りで警官の後についてタラップを降りた。カヌーに移り、やが
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