。手當をしてゐる暇は無い。侍臣に扶けられつつ、眞暗な曠野を急ぐ。兎にも角にも夜明迄に國境を越えて宋の地に入らうとしたのである。大分歩いた頃、突然空がぼうつ[#「ぼうつ」に傍点]と仄黄色く野の黒さから離れて浮上つたやうな感じがした。月が出たのである。何時かの夜夢に起されて公宮の露臺から見たのとまるでそつくり[#「そつくり」に傍点]の赤銅色に濁つた月である。いや[#「いや」に傍点]だなと莊公が思つた途端、左右の叢から黒い人影がばら/\と立現れて、打つて掛つた。剽盜か、それとも追手か。考へる暇もなく激しく鬪はねばならなかつた。諸公子も侍臣等も大方は討たれ、それでも公は唯獨り草に匍ひつつ逃れた。立てなかつたために却つて見逃されたのでもあらう。
氣が付いて見ると、公はまだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]をしつかり抱いてゐる。先程から鳴聲一つ立てないのは、疾うに死んで了つてゐたからである。それでも捨て去る氣になれず、死んだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を片手に、匍つて行く。
原の一隅に、不思議と、人家らしいもののかたまつた一郭が見えた。公は漸く其處迄辿り着き、氣息奄々たる
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