実は、一度成立すれば、自然的事実の性質をもってくる。それはその起源においても自然であり、その現われにおいても自然であり、その存在の様式においても自然である。小麦や銀が価値をもっているのは、これらの物が稀少であるからであり、換言すれば利用があり、かつ量において制限せられているからであるが、これら二つの事情は共に自然的である。そして小麦と銀とが互に比較せられて、しかじかの価値を有つのは、それらがそれぞれ稀少の程度を異にするからである。他の言葉でいえば、利用の程度及び量において制限せられる程度を異にするからであるが、これら二つの事情は右に述べたそれらと同じく自然現象である。
 しかしこれは、我々が価格に対し何らの働きをも加え得ない、という意味ではない。重さが自然法則に従う自然的事実だとしても、これを袖手《しゅうしゅ》傍観していなければならぬということにはならない。我々の便利になるようにこれに抵抗したり、これを自由に働かせたりする。しかしこの性質も法則も変化することは出来ない。我々はいわばこれに従ってしか、これを支配することが出来ない。価値の場合も同様である。例えば小麦についていえば、小麦の在荷貯蔵量の一部を破棄してその価格を騰貴せしめることが出来る。また小麦に代えて、米、馬鈴薯、またはその他の物を食して、この価格を下落せしめることも出来る。また小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランではなく、二〇フランであるべしと法律で定めることさえも出来る。前の場合には我々が価値の原因に働きを加えたのであって、自然的価値を、他の自然的価値に置き換えたに過ぎない。第二の場合には我々は事実そのものに働きを加えたのであって、自然的価値に人為的価値を加えたのである。最後に厳密にいえば、交換を廃止して、価値を廃止することも出来る。しかしもし交換を行うものとして、在庫貯蔵量と消費量とのある状態、一言にいって稀少性の状態が与えられたとすれば、それからある価値が生じまたは生じようとする傾向を我々は妨げ得ないであろう。
 二九 小麦一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。だがこの場合にこの事実は数学的性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦の価値すなわち小麦の価格は、昨日、二二または二三フランであった。先刻は二三・五〇フランまたは二三・七五フランであった。しばらくの後には二四・二五フランまたは二四・五〇フランとなり、明日は、二五または二六フランとなるであろう。しかし今日の現在では二四フランであって、それ以上でも無ければ、それ以下でも無い。この事実は明白に数学的事実の性質をもっているのであって、従って直ちにこれを方程式で表わすことが出来、またこの表わし方によってのみ、その真の表現をなすことが出来るのである。
 ヘクトリットルは小麦の量の尺度の単位として許容せられ、グラムは銀の量の尺度の単位として許容せられたとして、もし小麦五ヘクトリットルが銀六百グラムと交換せられるとすると、正確には「小麦五ヘクトリットルは銀六百グラムに等しい価値を有する」ということも出来れば、「小麦一ヘクトリットルの交換価値の五倍は、銀一グラムの交換価値の六百倍に等しい」ということも出来る。
 そこで、vb[#「b」は下付き小文字][#「vb[#「b」は下付き小文字]」は縦中横] を小麦一ヘクトリットルの交換価値であるとし、 va[#「a」は下付き小文字][#「va[#「a」は下付き小文字]」は縦中横] を九〇パーセントの銀一グラムの交換価値であるとする。しからば数学の普通の記号法によって、方程式
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[1] 5vb[#「b」は下付き小文字]=600va[#「a」は下付き小文字]
[#ここで字下げ終わり]
が得られ、また両辺を5で除せば、
[#ここから4字下げ]
vb[#「b」は下付き小文字]=120va[#「a」は下付き小文字]
[#ここで字下げ終わり]
が得られる。
 もしまた、既に述べた例の中で仮定したように、一グラムの銀の交換価値の代りに、九〇パーセントの銀五グラムの交換価値を価値の尺度として採用し、かつこの銀五グラムの交換価値をフランと呼べば、換言すれば、
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5va[#「a」は下付き小文字]=1 フラン
[#ここで字下げ終わり]
であるとすれば、
[#ここから2字下げ]
[2] vb[#「b」は下付き小文字]=24 フラン
[#ここで字下げ終わり]
となる。
 しかし[1]の形式をとろうが、[2]の形式をとろうが、これらの方程式は、「小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランである」という句の正確な飜訳――私はあえてこの事実の科学的表現であるといいたい――である。
 三〇 故に交換価値は一つの大きさであり、評価せられ得る大きさであることを、私共は今から知ることが出来る。そして一般に数学がこの種の大きさの研究を目的とするとしたら、たしかにここに、今まで数学者が忘れていて充分に研究されていなかった数学の一分科、交換価値の理論があるわけである。
 私は、この科学が経済学の全部であるとはいわない。これは既に人々が熟知している所である。力、速度は評価し得る力であるが、力と速度の数学的理論が力学の全部ではない。しかしこの純粋力学が応用力学に先行せねばならぬことも確かである。同様に応用経済学に先行する純粋経済学があり、この純粋経済学は物理数学的科学に全く相類する科学である。この主張は全く斬新であり、奇異に見えるかもしれない。しかし私は既にこの主張を証明した。私はこれを更によく証明するであろう。
 純粋経済学すなわち交換価値と交換の理論、更に換言すれば抽象的に考えられた社会的富の理論が、力学・水力学の如く、物理数学的科学であるとしたら、それに数学的方法と用語とを用いるのに、何らの躊躇をする必要はない。
 数学的方法は経験的方法ではなく、合理的方法である。狭義の自然科学は、自然を純粋に単純に記述するに止まり、経験の領域外に出ないものであるか。私は、この問題に答える労を自然科学者に委せておく。だがたしかなのは、物理数学的科学は狭義の数学の如くその内容のタイプを経験に借りるけれども、これらを借りたそのときから経験の領域を離れていくことである。これらの科学は現実のタイプから理念的タイプを定義し、引出してくる。そしてこれらの定義の基礎の上に、先験的に定理と証明の足場を作る。そして後その結論を応用しようとして経験に帰るのである。その結論を確証しようとして経験のうちに入っていくのではない。幾何学を多少でも学んだ者は何人も熟知するように、円の半径は互に相等しく、三角形の内角の和は二直角に等しい。だがこれは抽象的理念的円または三角形においてのみ真理である。実在は、これらの定義や証明を近似的にしか確証しない。しかもこれらの定義と証明とは充分に実在に応用され得るのである。この方法に従い、純粋経済学は、交換、需要、供給、市場、資本、収入、生産的用役、生産物等のタイプを経験に借りねばならぬ。純粋経済学は、これらの現実的形態から、定義によって理念的形態を抽象し、これら理念的形態の上に推論を行い、科学が成立してから応用を目的として再び現実に帰らなければならない。かようにして理念的市場において、理念的需要供給と厳密な関係をもつ所の理念的価格が得られる。他もすべて同様である。これらの純粋な真理はしばしば応用せられるものであろうか。厳密にいえば、科学のために科学を研究するのは、科学者の権利である。ある奇怪な図形の奇怪な性質が不思議ならば、幾何学者はこれを研究する権利をもっている(また日々この権利を行使している)。けれども純粋経済学のこれらの真理も、応用経済学及び社会経済学の上の最も重要で最も論争があったかつ最も不分明な問題に解決を与えるであろうことは、後に明らかにする如くである。
 用語に関しては、数学上の用語を用いれば少数の語で最も正確に最も明快に表現出来ることをば、リカルドがしばしばなしたように、またミルが経済原論の到る所になしたように、通常の用語を用いてすこぶる不正確にすこぶる困難に説明することに人々が執著《しゅうちゃく》しているのは、なぜであろうか。
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    第四章 産業の事実と応用経済学とについて。
        所有権の事実と社会経済学とについて

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要目 三一 産業の事実。直接的利用、間接的利用。利用の増加。間接的利用の直接的利用への変形。三二 産業の二系列の活動。(一)技術的活動 (二)分業の結果生ずる経済的活動。三三 二重の問題。三四 産業的経済的生産の事実は社会的事実で自然的事実ではなく、産業的事実で道徳的事実ではない。社会的富の生産の理論は応用科学である。三五 専有の事実は社会的事実であって、自然的事実ではない。自然は占有せられ得る状態を作り、人間が専有をなす。三六、三七 道徳的事実であって、産業的事実ではない。所有権は合法的な専有である。三八 共産主義と個人主義。社会的富の分配の理論は道徳科学である。三九 道徳と経済学の関係の問題。
[#ここで字下げ終わり]

 三一 量において限られて利用がある物のみが産業により生産せられ得るのであり、またそれらはすべて産業によって生産せられる(第二五節)。そして事実において確かに、産業は稀少な物しか生産しようと努力しないし、またそれらは稀少なすべての物を生産しようと努力する。
 私は、この産業的生産の事実を、今から、多少の正確さをもって明白にしておかねばならぬ。量において限られて利用がある物は、この限られているという不便のほか(これは一つの不便である)、往々にしてなお他の不便すなわち直接的利用を有しないでただ間接的利用をもっているという不便を有している。羊の毛は無論利用がある物である。しかしこれを欲望の充足例えば衣服のための欲望充足に用いるに先立って、我々はこれに、羊毛を布とする操作と、布を衣服とする操作との二つの予備的な産業上の操作を加えなければならぬ。ところで利用があるがそれが間接であり量において限られた物の数はすこぶる多いのであるが、このことはわずかに一瞬間の熟考によっても知られる。そこで産業的生産は、量において限られてしか存在しない利用がある物の量を増加する目的と、間接的利用を直接的利用に変化する目的との、二つの目的を追うものであるという結果が出てくる。
 先に産業は、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする、人格と物との関係の総体であると、極めて一般的に定義しておいたが、産業の目的はかくして、正確になってくる。人間がすべての物と関係をもってくるのは、たしかに、これらの物を利用するがためである。しかしこれらの関係の不変の目的が、社会的富の増加及び変形にあることもまたたしかである。
 三二 この二重の目的は、全く異る二系列の活動を通じて、人間によって追求された。
 一、産業活動の二系列の一つは、狭義の産業活動すなわち技術的操作から成る。例えば農業は、食物、衣服に役立つ動植物の量を増加し、鉱業は、道具や機械を作る鉱物の量を増加する。製造工業は、繊維を絹布、毛織物、綿布に変じ、鉱物をあらゆる種類の機械に変化する。土木建築業は工場、鉄道を建設する。たしかにそれらは、物の目的を人格の目的に従属せしめようとする人と物との関係の性質を明らかにもつ活動であり、また社会的富の増加と変形を目的とするより限られたかつより確定せる性質をもっている活動である。故にそれらは応用科学または政策の対象の第一系列を構成する産業事実の第一系列すなわち技術である。
 二、産業活動の第二は、狭義の産業の経済的組織に関する操作から成る。
 上に述べた第一系列の活動は、第二系列の活動に見るような事実すなわち人の生理が分業に適する事実がないものとしても、産業全体を構成し技術全体の対象を構成し得よう。もしすべての人の運命が互に独立してその欲望を充足するものだとしたら、我々は各々孤立して各自の目的
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