純粋経済学要論
ELEMENTS D'ECONOMIE POLITIQUE PURE OU THEORIE DE LA RICHESSE SOCIALE
上巻
レオン・ワルラス Leon Walras
手塚壽郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)齢《よわい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|粁《キロメートル》

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(例)(一)[#「(一)」は行右小書き]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔me'daillon〕
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http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     訳者序

 一九〇九年、レオン・ワルラスの七十五歳の齢《よわい》を記念して、ローザンヌ大学は 〔me'daillon〕 を作った。それには、次の銘が刻んである。
 〔"A Le'on Walras, ne' a` Evreux en 1834, professeur a` l'Acade'mie et a` l'Universite' de Lausanne, qui le premier a e'tabli les conditions ge'ne'rales de l'e'quilibre e'conomique, fondant ainsi l'e'cole de Lausanne. Pour honorer cinquante ans de travail de'sinte'resse'."〕
(一八三四年に Evreux に生れローザンヌ 〔Acde'mie〕 並びにローザンヌ大学の教授であり、経済均衡の一般的条件を論証した最初の人であり、ローザンヌ学派の開祖であるレオン・ワルラスに。利慾を離れた五十年の研究生活に敬意を表するために。)
 この銘こそはワルラスの学問的業績を最も明確に表明しているものである。多くの経済学説史家は、メンガー、ジェヴォンスと共に限界利用説を作りあげたこと、または数学を経済学に応用したことをもって、ワルラスの学問的功績となそうとしている。まことにこの点に関するワルラスの業績は、時間的に見ればジェヴォンスとメンガーとに後《おく》れてはいるが、立論の精緻なことにおいて、これらの学者の及ぶ所ではない。けれどもワルラスの業績の第一次的意義をここに求めようとするほど、彼に対する理解の浅薄を示すものはないであろう。だがワルラス自身さえも第一次的意義のあるものを意識しなかったのである。ローザンヌ学派に属する有力な一人である G. Sensini の一句、「ワルラスは、一八七三年から一八七六年の間に、有名な四箇の論文を書いた。――彼の学問的仕事はほとんどすべてこれらの中に含まれている。――しかし彼は、これらの論文に述べられた先人未発の思想の稀有の重要さを解しなかった。彼の頭脳と性質と、そして一部には偶然とが、彼をして、経済学にとりすこぶる豊沃な方途に向わしめたのである。しかるに不幸にも、彼は、社会改良家としての性質に支配されて、まもなくこの研究領域を捨てて、空想的応用方面に進んでいった(一)[#「(一)」は行右小書き]。」は、この事情を明快に指摘して、余蘊《ようん》がない。ワルラスが意識せると否とにかかわらず、彼の業績の客観的独自性は、経済現象の相互依存の関係(〔mutuelle de'pendance〕)を認識した点にある。一切の経済現象は各々独立なものではなく、相互に密接に作用し合っている。これら経済現象中のいずれの一つに起る変化も他のすべてに影響を及ぼし、これらの影響はまた逆にこの一つの現象に影響を及ぼす。従って経済現象は互《たがい》に原因結果の関係によって結び付いているのではなく、相互依存の関係に織り込まれているのである。ワルラス以前にも経済現象が互にこの依存の関係をもっていることを認識した者がないではない。だがこれらの現象が同時にかつ相互に(〔ensemble et re'ciproquement〕)決定し合うことを証明した最初の人がワルラスであったことは、争う余地がない(二)[#「(二)」は行右小書き]。ところで、この相互依存の関係を明らかにするには、パレートがいっているように、通常の論理は無力であり、数学の力に拠《よ》らねばならぬ(三)[#「(三)」は行右小書き]。ワルラスが、経済学に数学を用いた理由の一つには、経済学が量に関する研究であることもあるが、その主たる理由は、数学のみがこれら経済現象の相互依存の関係を明らかにし得ることにあった。ワルラスの業績の独自性と偉大さとは、一に、この点にのみ存する。もちろん、あらゆる事の先駆者においてそうであるように、経済現象の相互依存の関係を発見したワルラスにも、これら現象の間に因果関係を認めているが如き見解が残っている。けれども、これは、いずれの先駆者にも除き尽すことの出来ない古い物の残滓《ざんし》である。
 この残滓はパレートによって除き去られて、ワルラスの一般均衡理論は、後期ローザンヌ学派の純粋なる一般均衡理論となった。今日 〔de'sinte'resse'〕 の経済科学者にとっては、主観的価値説もなければ、労働価値説もない。ひとり一般均衡理論あるのみである。経済現象の 〔de'sinte'resse'〕 な研究をなそうと志す人々は、ワルラスとパレートとの研究から始めねばならない。誤訳なども多くあるかもしれないこの「純粋経済学要論」が、これらの人々にとっていくらかの役に立ち得るならば、訳者のこの仕事は無駄にはならぬであろう。この場合にも、R. Gibrat が 〔Les Ine'galite's e'conomiques, Paris. 1931.〕 の表紙に引用した Carver の一句は、記憶のうちに止めらるべきであろう。
 "The author hopes that the reader who takes up this volume may do so with the understanding that economics is a science rather than a branch of polite literature, and with the expectation of putting as much mental effort into the reading of it as he would into the reading of a treatise on physics, chemistry, or biology.(四)[#「(四)」は行右小書き]"
 この飜訳に際しても、「国際貿易政策思想史研究」の場合と同様に、高垣寅次郎先生の御指導と御尽力を忝《かたじけな》くした。けれども出来上がったものは、かくも拙劣である。この点、切に先生の御容赦を乞わねばならぬ。

  一九三三年三月
[#地から3字上げ]手塚壽郎

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註一 Sensini: La teoria della "rendita," 1912, pp. 407−8.
註二 〔Antonelli: Le'on Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines e'conomiques et sociales, 1910, p. 187.
註三 〔V. Pareto: Manuel d'e'conomie politique trad. de l'italien par Al. Bonnet, 1909. pp. 160, 247.
註四 T. N. Carver: The Distribution of Wealth, 1899, Preface.
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

     凡例

 一 この書物は、〔Le'on Walras: Ele'ments d'e'conomie politique pure ou The'orie de la richesse sociale. Paris et Lausanne.〕 を、一九二六年版に拠って、訳出したものである。厳密に訳せば、書名は「純粋経済学要論――社会的富の理論」とせられねばならぬのではあるが、称呼上の簡便を期するため、単に「純粋経済学要論」としておいた。一九二六年版は、三箇所に加えられた僅少の修正を除けば、決定版として知られている第四版すなわち一九〇〇年版と異る所が無い。これらのうち、二箇所はワルラスが一九〇二年付の註をもって一九二六年版に断っているが(本訳書下巻、第三二六、三六二節)、他の一箇所は断ってない。しかしこの一箇所は旧版の当該部分をより容易に理解せしめようとしてなされた修正であって、重要な修正ではない。第八二節がこの部分である。
 二 原著の叙述は、ほとんど全部条件法を用い、原著者がその主張にいかに謙譲であったかをよく示している。だが訳文には、必要な場合のほか、大部分直接法を用いることとした。
[#改ページ]

     レオン・ワルラスの略伝

 レオン・ワルラス(〔Marie−Esprit−Le'on Walras〕)は、一八三四年十二月十六日、パリを西北に百|粁《キロメートル》ほど隔てるエヴルー(Evreux)の町に、オーギュスト・ワルラス(Antoine−Auguste Walras)を父として生れた。父オーギュスト(一八〇一―一八六六)は南仏のモンペリエ(Montpellier)市の人であったが、一八三〇年にエヴルーの中学校の修辞学の教師となり、一八三三年には同校の校長となった。一八三四年に、この町で Louise−Aline de Sainte−Beuve と結婚した(一)[#「(一)」は行右小書き]。この同じ年にレオンが生れたわけである。オーギュストは一八三五年十一月までこの職にあったが、辞職の後、大学教授を目指してパリに移り、一八三九年までここで教授資格試験の受験準備をした。この年、リーユ(Lille)の中学校の哲学教授となり、一八四〇年には、カーン(Caen)の中学校に転じ、一八四六年に、カーン大学の文学部のフランス修辞学(〔e'loquence franc,aise〕)の講師となった。一八四七年、学位論文 〔Le Cid, esquisse litte'raire〕 によって、文学博士(〔Docteur−e`s−lettres〕)を授けられた。その後は視学官として、Nancy, Caen, Douai, Pau 等に転任している。これらの生活を通じてオーギュストが専門とした学問はフランス語学・文学・哲学であったのであるが、エヴルーの教師時代から経済学の研究が常に彼の大なる興味をひきつけていた。その間、かなり多数の経済学上の論文を公にしているのみならず、一八三一年には、「富の性質及び価値の源泉について」(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. Paris.)を公刊し、一八四九年には「社会的富の理論、経済学の基本原理の要約」(〔The'orie de la richesse sociale, ou Re'sume' des principes fondamentaux de l'e'conomie politique. Paris.〕)を公刊している。これらの二書は、レオンの思想に重大な影響を及ぼしたものとして、重要視すべきものである。レオン自身もこのことを認めている(二)[#「(二)」は行右小書き]。単に価値の心理的観方をなした点においてのみならず、また経済学を数理的科学でなければならぬと考えた点においても、父の思想はそのままレオンの思想となっているのである(三)(四)[#「(三)(四)」は行右小書き]。
 レオンは、一八五一年、文科
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