を追求し、無限に存在しないで利用のある物を、自ら必要と認める程度に増加し、また自ら適当と考える所に従い、間接的利用を直接的利用に変じなければならぬ。各人はあるいは百姓となり、あるいは製糸職工となり、パン屋ともなり、洋服屋ともならねばならぬ。我々の状態は動物のそれに近づいてくる。けだし狭義の産業すなわち工業は、分業に負う発展がないとしたら、些細なものに過ぎないから。しかし厳密に考えれば、この場合にも第一系列に属する産業は存在することが出来る。ただ経済的産業生産が存在し得ないのである。
 実際においては、今私共が想像した如くではない。人はただに生理的に分業に適するのみならず、また後に見る如く、この適性は人間の生存と生計とに必要な条件である。すべての人の運命は、欲望の充足の観点から見ると、独立ではなくして密接な関係をもっている。今ここでは分業の事実を、その性質または起源については研究しない。先に、人の道徳的自由と人格の事実を認めただけで、それ以上の研究に入らなかった如く、ここでも今はしばらく右の事実の存在を認めておくに止める。この事実は存在するのである。各人が稀少な物を自ら増加することなく、または自己にために間接利用を直接利用に変化することなく、この仕事を各々特種の職業によって分割して行わしめるときに、この事実は成立する。ある者は特に百姓であって百姓以外のものではないし、ある者は特に製糸職工であってそれ以外の者ではないし、他の者もこれと同様である。分業の事実とはこのことである。これは、我々が社会に一瞥《いちべつ》を投ずれば、直ちに明らかに存在を認められる事実である。ところでこの事実のみが経済的産業生産の事実を生ぜしめるのである。
 三三 そこでこのことから二つの問題が生じてくる。
 まず分業の無い場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会的富の産業的生産は単に豊富でなければならぬのみでなく、またよく釣合を保っていなければならぬ。稀少なある物が過剰に増加せられていながら、他の物の量が不充分に増加せられていてはならぬ。ある間接的利用が大規模に直接的利用に変化されていながら、他の間接的利用が不充分な程度にしか直接的利用に変形せられていないようであってはならぬ。もし我々の各々が自ら百姓の仕事も、大工の仕事も、技師の仕事もするとすれば、これらそれぞれの仕事を自ら必要と信ずるだけするであろう。同様に職業が分化している場合にも、製造工業家が多過ぎて、他方百姓が少な過ぎるようなことがあってはならない。
 次に、分業が行われない場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会における人々の間に行われる社会的富の分配が、公平でなければならぬ。経済的秩序が乱れていてはならぬように、道徳的秩序が乱れていてはならない。もし我々の各々が、自ら消費する一切の物を自ら生産し、自ら生産する物しか消費しないとすれば、生産が消費の必要を目的として規制せられるのみならず、消費もまたその生産の大きさによって決定せられるであろう。ところで職業の分化があったからとて、ある者が僅少な生産をなしながら、多量の消費をなし、ある他の者が多くの多くの生産をなしながら、わずかの消費しかなし得ないようであってはならない。
 かくてこれら二つの問題の重要さも了解せられ、またこれらの問題に与えられた種々なる解答の意味も了解せられ得よう。同業組合、職工組合、親方の制度は、特に生産の釣合の条件を充すことを目的としているのは明らかである。商工業自由の制度すなわち普通にレッセ・フェール、レッセ・パッセの制度と呼ばれるものは、釣合の条件と、富を豊富ならしめる条件とをよく調和しようとする主張をもっている。この制度に先行した奴隷制度、農奴の制度は、社会のある階級をある他の階級の利益のために労働せしめたという不便を明らかにもっていた。現在見る如き所有権及び租税の制度は、人間による人間の搾取を完全に廃止したといわれる。私共は後にそれを検しよう。
 三四 今はただ二つの問題の存在を認め、次にそれらの目的を確定した後、それらの性質を精確にするという一つの事をなすに止める。さてコックランとその派の経済学者がいかにいおうと、社会的富の生産問題にはもちろん、その分配問題にも、自然科学の問題の性質を与えることはまずもって不可能である。人の意志は、社会的な生産の事実に対しても、分配の事実に対しても、自由に働く。ただ分配の場合には、人の意志は正義を考慮して働き、生産の場合には利益を考慮して働く。実際技術的産業の事実と私が右に定義したような経済的生産の事実との間には、性質の相異はない。二つの事実は相互に関係をもっていて、一方は他方を補完する。二つは共に人間的事実であって自然的事実ではない。かつ二つは共に産業的事実であって道徳的事実ではない。けだし二つは共に、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする人格と物との関係から成立しているから。
 故に社会的富の経済的生産の理論すなわち分業を基礎とする産業組織の理論は応用科学である。我々がそれを名附けて応用経済学[#「応用経済学」に傍点](〔e'conomie politique applique'e〕)というゆえんはここにある。
 三五 既に明らかにしたように、量において限られて利用がある物のみが専有せられ、またこのような物はすべて専有せられる(第二三節)。そしてこのような物のみが専有せられ、またこのような物がすべて専有されていることは、ただ我々の周囲を眺めれば、直ちに認められる。利用の無い物[#「物」は底本では「者」]は見捨てられ、利用があっても量において無限な物は、共有の領域に見捨てられる。これに反し稀少な物は引込められていて、最初に来る人といえどももはやこれを自由にすることが出来ない。
 稀少な物すなわち社会的富の専有は人間的事実であって、自然的事実ではない。その起源は人間の意志と行動にあって、自然力の活動にあるのではない。
 利用があって量において無限な物が専有せられることがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。また利用があって量において限られた物が専有せられないことがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。しかし専有の自然的条件が一度充されれば、この専有はある仕方で行われ、他の仕方では行われないというのは、我々によるのである。もちろんそれは個々の人によるのではなく、我々の全体によるのである。それは、各人の個人的意志にその起源を有する人間的事実である。実に人の創意は、専有の事実を欲するままに修正するように、この事実に対し過去において働いたのであり、現在働きつつあり、また働くであろう。社会の成立の当初においては分業を行った人々の間の物の専有すなわち社会的富の分配は、合理的条件を全く離れて行われたのではないにせよ、おおむね力に制せられ、策略に制せられ、偶然に制せられて行われた。最も大胆[#「大胆」は底本では「大謄」]な者、最も強い者、最も巧妙な者、最も好運な者が最もよい分け前を得、他の者はその残部を、すなわち僅少な物を得たか、またはほとんど全く何ものも得ていなかったのである。しかし政治と同じように所有権もまた、当初の無秩序な事実から、秩序ある最後の原理へと、徐々に進んできた。要するに自然は専有せられ得る状態を作ったのに止り、専有の状態を作ったのは人間である。
 三六 かつまた、人間による物の専有すなわち社会の人々の間における社会的富の分配は、道徳的事実であって、産業的事実ではない。人格と人格との関係である。
 もちろん我々は、稀少な物を専有しようとする目的をもって、これらの物との関係に入るのである。そして長い継続的努力の後にしか、この専有の目的を達し得ない場合も少くない。しかしこの観点、既に述べた所のこの観点をここでは採らない。今はただ予備的事情や自然的条件に関係なく、社会における人間の間の社会的富の分配の事実を考えよう。
 私は、野蛮人の一族と森林中にいる一匹の鹿とを想像する。この鹿は量において限られて利用がある物であり、従って専有せられる。私はこの点を疑の無いものと考えて論じない。しかしいわゆる専有をなすに先立って、この鹿を追い殺さねばならぬ。私は問題の第二面であるこの点も論じない。これは狩猟の問題であって、この鹿を切断し煮焼するのが料理の問題であるのに等しい。だが鹿とのこれらの関係を捨象しても、なお一つの問題がある。それは、森林中に鹿がいたとき、または死んだとき、誰がこれを専有するかの問題である。問題となるのは、このように見られた専有の事実である。また人と人との関係を構成するものは、このように見られた専有の事実である。そしてこの問題に一歩を踏み入れれば、我々は直ちに次の事実を信ぜざるを得ない。――「一族中の若年の機敏な一人がいう。鹿は、これを殺した者が専有すべきである。諸君が呑気《のんき》であったため、またはよく見当を付けなかったために鹿を殺すことが出来なかったとしたら、諸君が悪いのだと。老いた無力な一人はいう、鹿は我々のすべてによって平等に分配せられねばならぬ。森林中に一匹の鹿しかいないとして、君が第一番にそれを発見した所で、その事は我々がこれを食わないでいなければならぬという理由にはならないと。」――直ちに解るようにこれは本質上道徳的事実であり、正義の問題であり、人々の使命の相互関係の問題である。
 三七 かようにして専有の形態は我々の決断に依存するのであり、採られた決断がよいか悪いかに従って、専有の形態はあるいはよいものとなり、あるいは悪いものとなる。よい形態であれば、人々の使命をこれらの人々の間によく調和せしめ、正義の要求を満足せしめるであろう。悪い形態であれば、ある人の使命をある他の人々のそれに従属せしめ、不正義を生ぜしめるであろう。いかなる形態が良いものであってかつ正当なのであるか。いかなる形態の専有が、道徳的人格の要求に合うものとして理性によって推薦せられるものであるか。ここに所有権の問題がある。所有権は公正で合理的な専有であり、合法的な専有である。専有は純粋にして単純な事実である。所有権は合法的事実であり、権利である。事実と権利との間には、道徳論の余地がある。ここに本質的な点があるのであって、これを誤解してはならない。専有の自然的状態を明らかにし、あらゆる所と時において社会の人々の間に社会的富の分配が行われている種々な形態を枚挙してみたところで、それは何ものでもない。これらの形態を、道徳的人格の事実から出てくる正義の観点から、また平等と不平等の観点から批評し、それらがいかなる点に常に欠陥があったかを指摘し、唯一の良い形態を示すこそ、すべてである。
 三八 社会的富と、社会を作っている人とが現れて以来、社会の人々の間における社会的富の分配の問題は論議されてきた。それは常に正しい、そしてその上に分配を維持しなければならない基礎を問題としてきた。考え出されたすべてのシステムのうちで最も有名なのは、古代の最大の哲学者プラトーンとアリストートをチャンピオンとする共産主義と個人主義である。だが共産主義といい、個人主義といい、それらは何を意味するか。共産主義者はいう、「財は共同に専有せられねばならぬ。自然は財をすべての人に与えた。単に現に生存している人にのみならず、将来生存するであろう人々にも与えたのである。これを個々の人々の間に分つのは、現存の社会と後世の社会の財産を分割することである。それは、この分割後に生れる人々をして、神が準備してくれた資源を利用出来ないようにすることである。これらの人々の目的の追求とその使命の実現を妨げることである。」これに対し個人主義者は答える。「財は個人によって専有せられねばならぬ。自然は人々を、各々の徳につき、技倆《ぎりょう》につき、不平等に作った。勤勉な者、巧妙な者、倹約な者の労働の成果、貯蓄の成果を共同の所有としようと強いるのは、これらの人々の手からこれらを奪って、懶惰《らんだ》な者、巧妙でない者、浪費者のた
前へ 次へ
全58ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
手塚 寿郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング