めに与えるものであり、すべての人々から、各自の目的の追求が適当であったか否かの責任を奪うものであり、各自の使命の遂行が道徳的であったか否かの責任を奪うものである。」――私はこれだけの記述しかしない。共産主義が正しいか。個人主義が正しいか。それとも共に誤であるのか。または共に理由があるものなのか。我々は未だにこの論争を尽していない。私は今これらの学説に評価を下さないし、より詳細な解説も加えない。ただ、所有権問題の目的を広汎で完全な立場から見たならば、それが正確にはいかなるものであろうかを理解せしめようとしたに過ぎない。ところでこの目的は、本質的には、社会的富の専有に関して人格と人格との関係を定めるのに、理性と正義とに合致するように諸人格の使命を調和することにある。故に専有の事実は、本質的には道徳的事実であり、従って所有権の理論は、本質的には道徳科学に属する。Jus est suum cuinque tribuere. 正義とは、各人に属する物を、各人に得せしめるにある。だから各人に属する物を各人に得せしめることを目的とし、正義を原理とすれば、その科学は社会的富の分配の科学であり、私が呼ぶ所の社会経済学[#「社会経済学」に傍点](〔e'conomie sociale〕)である。
 三九 だがここに一つの困難がある。私はそれを指摘しておきたいと思う。
 所有権の理論は、道徳的人格としての人間と人間との間に存在する社会的富に関する関係、すなわち社会における人々の間の社会的富の公正な分配の条件を決定する。産業の理論は、特種な職業に従事して労働者と考えられる人と物との関係を、社会的富の増加と変形の観点から決定する、すなわち社会の人々の間に社会的富を豊富ならしめる条件を決定する。前者の条件は、正義の観点から導き出されるべき道徳的条件である。後者の条件は、利益の観点から導き出されるべき経済的条件である。しかしこれらは同じく社会的条件であり、社会の組織を目的とする手引きである。ところでこれら二つの種類の考察は互に矛盾するのであるか、または反対に相互に支持し合うのであるか。例えば所有権の理論と産業の理論とが共に奴隷制度または共産主義を拒否したとしても、もちろんよい。しかしこれらの理論の一つが、正義の名によって奴隷制度を拒否し、または共産主義を吹聴し、他の一つは、利益の名をもって、奴隷制度を賞讃し、または共産主義を拒否したと想像すれば、道徳科学と応用科学との間に矛盾があることになる。この矛盾は可能であるか。この矛盾が現れたとしたら、いかになすべきであろうか。
 我々はこの問題に遭遇するのであるが、私はこの問題に、それがもつべき地位を与えたいと思う。これは特にプルードンとバスチアとの間に、一八四八年の頃、道徳と経済学の関係について行われた論争の問題であった。プルードンは「経済的矛盾」において、正義と利益との間に矛盾があると主張し、バスチアは「経済的調和」において反対の説を主張した。私は二人が共にその証明を完全に果したとは考えない。そして私はバスチアの説を採るが、しかしバスチアとは異る方法によってこれを弁じたいと思う。とにかく、問題が存在するとしたら、これを解決せねばならない。全く異る道徳科学である所有権の理論と、応用科学である産業の理論とを混同して、この問題を隠蔽《いんぺい》してはならない。
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  第二編 二商品間に行われる交換の理論
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    第五章 市場と競争とについて。二商品間に行われる交換の問題

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要目 四〇 社会的富は価値がありかつ交換し得られる物のすべてである。四一 交換価値は互にある割合の分量で受けまたは与えられる物がもつ性質である。市場は交換が行われる場所である。競争の機構の分析。四二、四三 証券市場。有効な需要と供給。供給と需要の均等、静止的な流通価格。需要が供給に超過すれば騰貴する。供給が需要に超過すれば下落する。四四 商品A及びB。方程式 mva[#「a」は下付き小文字]=nvb[#「b」は下付き小文字]. 価格 pa[#「a」は下付き小文字] 及び pb[#「b」は下付き小文字]. 四五 有効な需要と供給、Da[#「a」は下付き小文字], Oa[#「a」は下付き小文字], Db[#「b」は下付き小文字], Ob[#「b」は下付き小文字]. 定理 Ob[#「b」は下付き小文字]=Da[#「a」は下付き小文字]pa[#「a」は下付き小文字], Oa[#「a」は下付き小文字]=Db[#「b」は下付き小文字]pb[#「b」は下付き小文字]. 需要が主要な事実であり、供給は附随的な事実である。四六 定理 [#式(fig45210_004.png)入る]. 四七 供給と需要の均等すなわち均衡の仮説。四八 供給と需要の不均等の仮説。価格の騰貴または下落は需要を減少、または増加せしめる。供給については如何《いかん》。
[#ここで字下げ終わり]

 四〇 第二一節になした基礎的一般的考察の中で、私は、社会的富を、稀少な物すなわち利用があると同時に量において限られた有形または無形の物の総体であると定義し、かつ稀少な物はすべて、そしてこれらのみが価値があり、交換せられ得ることを証明した。それとは別にここでは、社会的富を価値があって交換せられ得る有形無形の物の総体であると定義し、かつ価値があって交換せられるすべての物が、そしてそれらのみが利用があると同時に量において限られている物であることを証明しよう。先の定義では、私は原因から結果に赴いているわけであり、今与えた定義では、結果から原因に遡っているわけである。だが稀少性と交換価値との二つの事実の関係を明らかにすることが出来るならば、これらのいずれの行き方をしようと、自由であるのはいうまでもない。ただ私は、交換価値のような一般的事実の組織的研究にあっては、性質の研究が起源の研究に先立たねばならぬと考えるのみである。
 四一 交換価値[#「交換価値」に傍点]はある物がもつ性質であり、無償で獲得せられることも無償で譲渡されることもなくして売り買いせられる性質、すなわち他の物を与えまたは受けるのにある割合の分量で受けまたは与えられる性質である。一つの物の売手は、それと交換に受ける物の買手である。一つの物の買手は、それと交換に与える物の売手である。他の言葉でいえば、二つの物の相互の交換はすべて二つの売りと買いとから成り立つ。
 価値があって交換せられる物は、また商品[#「商品」に傍点](marchandises)と呼ばれる。市場は商品が交換せられる場所である。故に交換価値という現象は市場に生れるのであって、交換価値の研究は市場においてなされねばならぬ。
 自由に放任せられる限り、交換価値は自由競争の支配を受けている市場において自然に発生する。交換をなす者は、買手としては互により高く需要しようとし、売手としては互により安く供給しようとする。これらの競り合いから、あるいは上向の、あるいは下向の、あるいは静止する商品の交換価値が生れる。この競争が充分に働くか否かによって、交換価値は、あるいは正確に、あるいは不正確に現われる。競争の点から見て最もよく組織化された市場は、売買が例えば仲買人・才取等のような売買を集中する仲介者によって行われる市場である。従ってこのような市場では、いかなる交換も、その条件が公にせられることなくしては行われず、売手が互により安く売ろうとし、買手が互により高く買おうとすることなくしては、行われない。株式取引所・商品取引所・穀類取引所・魚市場等は、実にこのような働き方をする市場である。しかしこれらの市場のほかに、多少は制限せられていても競争がともかくも相応にかつ満足な程度に行われる市場がある。蔬菜《そさい》市場、家禽市場などがこれである。小売商店・パン屋・肉屋・乾物屋・服屋・靴屋等の並列した街は、競争の点から見ると充分に組織化されていない市場ではあるが、それにしても、そこではかなりの程度まで競争が行われる。医師・弁護士の仕事の価値、音楽家の興行の価値の決定を支配するものもまた競争であることは争い得ない。更にまた全世界は、社会的富の売買が行われる一つの広大な一般的市場で、それを個々の特種な市場が形成しているのである。これらの市場においてこれらの売買はいかにして自ら成立していくか。その法則を知ることが我々の問題である。この目的をもって常に私は、競争の点から見て完全な組織をもっている市場を仮定する。これは、純粋力学において摩擦のない機械を仮定するのと同様である。
 四二 ところでよく組織せられた市場において競争がいかに働くかを見ようと思うのであるが、その目的のために、パリまたはロンドンのような資本の大市場における証券取引所に入ってみよう。これらの場所で人々が売買している物は、社会の富のうちで、証券によって表わされている重要な富の一部分である。例えば国家その他の公共団体に対する債権の一部分・鉄道・運河・重工業工場等の一部分である。我々がこの市場に入るとき、聞き得るものは、取りとめのない喧騒のみであり、見得るものは、無秩序の運動のみである。しかし一度私共がその内容に通暁するに至るならば、この喧騒とこの活動との意味が極めて明瞭になってくる。
 今例えばパリの取引所において行われる三分利付フランス国債の取引を、他の取引から引離して観察してみる。
 三分利付公債は六〇フランであるという。これを六〇フランまたはそれ以下に売ってよいとの指図を受けた仲買人は、三分利付の公債のある量すなわちフランス国家に対する三分の利子の要求証券のある量を六〇フランの価格で供給する。かくの如く一定の価格である量の商品が供給せられたとき、この供給を有効供給[#「有効供給」に傍点](offre effective)と呼ぶ。反対に六〇フランまたはそれ以上で買ってもよいとの指図を受けた仲買人は、三分利付公債のある量を六〇フランの価格で需要しているのである。ある価格である量の商品が需要せられるとき、この需要を有効需要[#「有効需要」に傍点](demande effective)と名づける。
 さてこの需要が供給に等しいか、これより多いかまたは少いかに従って、我々は三箇の仮定を設ける。
 仮定一。六〇フランで需要せられる量が、この価格で供給せられる量に等しい場合。これは売手または買手である仲買人がいわばその相手方を他の買手または売手である仲買人に正確に見出す場合である。この場合には交換が行われ、相場は六〇フランを維持し、市場の静止状態すなわち市場の均衡(〔e'quilibre〕)が現われる。
 仮定二。買手である仲買人がその相手方を見出し得ない場合。この場合には六〇フランの価格で需要せられる三分利付公債の量は、この価格で供給せられる量を超過している。理論上交換は中止せられる。六〇・〇五フランまたはそれ以上で買ってもよいとの指図を受けた仲買人がこの価格で需要する。彼らはせり上げる。このせりは二つの結果を生ぜしめる。(一)六〇・〇五フランでの買手となり得ない所の六〇フランの買い手は退く。(二)六〇フランでの売手となり得ない所の六〇・〇五フランにおいての売手が加わってくる。もし彼らが既に指図を与えていないとすれば、彼らは新に指図を与える。かく二つの動因によって、有効需要と有効供給との間に存する隔りは減少する。両者の均等が再び出現すれば、価格の騰貴はそこで停止する。そうでない場合には六〇・〇五フランから六〇・一〇フランに、六〇・一〇フランから六〇・一五フランにと、供給と需要との均等が成立するまで、価格は騰貴する。そして高い相場で、新しい静止状態が現われる。
 仮定三。売手である仲買人がその相手方を見出し得ない場合。この場合には六〇フランの価格で供給せられる三分利付公債の量は、同じ価格で需要せられる量より大である。この場合にも交換は停止する。五九・九五フランまたはそれ以下で売ってもよいとの指図を受
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