攪_。二七 交換価値の事実。市場において生ずる。二八「小麦は一ヘクトリットル二四フランの価値がある。」これは自然的事実である。二九 これは数学的事実でもある。 5vb[#「b」は下付き小文字]=600va[#「a」は下付き小文字] 三〇 交換価値は評価され得る大きさである。交換価値と交換の理論すなわち社会的富の理論は物理数学的科学である。合理的方法。代数的用語。
[#ここで字下げ終わり]

 二一 物質的なまたは非物質的な物(物が物質であるか非物質であるかは何ら関する所ではない)であって稀少なもの、すなわち我々にとって利用があるものであると同時に量に限りがあって我々が自由勝手に獲得出来ないすべての物を社会的富[#「社会的富」に傍点](richesse sociale)と呼ぶ。
 この定義は重要である。私はそれに含まれた言葉を明確にしておく。
 物は何らかの使用に役立ち得るときから、すなわち何らかの欲望に適《かな》いこれを満足し得るときから利用があるという。だから、通常の会話では必要と贅沢との間に快適と列《なら》べて有用を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題としない。必要・有用・快適・贅沢これらすべては我々にとっては程度を異にする利用を意味するに過ぎない。またここでは、利用のある物が対応し、これが満足することの出来る欲望が、道徳的であるかまたは不道徳的であるかを問わない。ある物が病人の治療の目的のために医師によって求められるか、または人を殺害しようとして殺人者によって求められるかは、私共の観点からは全く興味のない問題であるが、他の観点からは重要な問題である。この物はこれら二つの場合に共に利用があるのみでなく、後の場合に利用がより多いこともあり得る。
 我々の各々がある物に対してもっている欲望を欲するままに満足し得るほど多くのこの物の量が存在しないとき、この物は我々の処分に対し限られた量しかないという。世には、全く無い場合を除けば、常に無限量が我々の処分に委《まか》せられているような若干の利用がある。例えば大気、太陽が上っているときの太陽の光線と熱、湖水の岸辺の水、河川の岸の水等は、何人にも不足の無い程度に存在し、何人も欲するままの量を採ることが出来る。これらの物は利用を有するが一般に稀少ではなく、社会的富を成さない。例外的にこれらの物も稀少となることがあるが、そのときにはこれらの物も社会的富の一部を成すことが出来る。
 二二 これによって、稀少[#「稀少」に傍点](rare)と稀少性[#「稀少性」に傍点](〔rarete'〕)という語がここでいかなる意味のものであるかが解るであろう。この意味は、力学における速度、物理学における熱という語の意味の如く科学的である。数学者や物理学者にとっては速度は緩徐《かんじょ》に対立するものではなく、熱は寒さに対立するものではない。緩徐は数学者にとってはより少い速度に過ぎないし、寒さは物理学者にとってより少い熱に過ぎない。科学上の用語では、物体は動き始めれば速度をもち、何らかの温度をもち始めれば熱をもつ。それと同じように、稀少性と豊富とは互に矛盾しない。いかに豊富に存在する物であっても、その物に利用があり、量において限られているなら、経済学上では稀少である。このことは、ある物体がある時間中にある空間を通過すれば、この物は力学上では速度をもつといわれるのと全く異る所がない。しからばあたかも、通過せられた空間のこれを通過するに要した時間に対する比、または一単位時間にのうちに通過せられた空間が速度といわれるように、稀少性とは、利用の量に対する比、または一単位の量のうちに含まれる利用をいうのであろうか。しばらく私はこの点に対する断定を下すのを差控え、後に再びこの論究に立ち帰るであろう。ところで利用のある物はその量の制限せられている事実によって稀少となるのであるが、この結果として三つの事情が生れる。
 二三 (1)量において限られかつ利用のある物は、専有せられる。無用の物は、専有せられない。何らの用途にも役立たない物は、何人もこれを専有しようと思わない。また利用のある物であっても無限の量のあるものは専有せられない。まずこのような物は、無理に押し付けることも出来ねばまた差押えることも出来ない。人々はこれらの物を共有の状態から取り去ってしまうとしたところで、無限の量があるから、出来るものではない。大部分を各自の処分の下に置き得るのならとにかく、わずか一部分を所有し貯えておいて、何になるか。何かにこれを利用しようとするのか。だが、何人も常にこれを獲得出来るのに、誰がこれを需要するのか。それとも自らこれを使用するためなのであるか。だが常にいつでもこれを獲得出来ることが確実であるとしたら、これを貯蔵して何の役に立つか。空気は誰にも与えることが出来ないもので、また自ら呼吸する必要を感ずる場合には、口を開けばこれを得られるのであるから空気の貯蔵をしておく必要はない(通常の場合をいうのである)。これに反し限られた量しか存在しない利用のある物は、専有せられ得る物であり、専有せられる。まずそれらは、強制的に押しつけることも出来れば、差押えされることも出来る。ある数の個人のみが、この物の存在する量を集めて、共有の領域にこれを残しておかないようにすることが、たしかに可能である。そしてこの操作を行えば、これらの人々には二重の利益がある。第一に彼らはこれらの物の貯蔵を確保し、これらを利用して自らの欲望を充すに役立たせる可能性を準備しておく。第二にもし彼らがその貯蔵の一部しか消費しようと欲しないかまたは消費し得ないとしても、この過剰量と交換に、その代りとして消費すべきかつ量において限られた他の利用を獲得する能力を保留しておく。しかしこれはまた私共が別に取扱わねばならぬ所の異る事実となってくる。今ここでは専有(従って合法的なまたは正義に一致せる専有である所有権もまた)は社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富に存在すると認めておくに止める。
 二四 (2)利用があって量において限られた物は、先に一言触れたように、価値がありかつ交換せられ得る。稀少な物が一度専有せられると(そして稀少なもののみが専有せられ、また専有せられる物はすべて稀少である)これらすべての物の間に一つの関係が成立する。この関係とは、これら稀少な物の各々は、それに固有な直接的利用とは独立に、特別な性質として、一定の比例で他の各々と交換せられる能力をもっているということである。もし人がこれら稀少な物の一つしかもっていないとすると、これを譲渡してこれと交換に、自らもっていない他の稀少な物を得ることが出来る。そして人がこの稀少な物をもっていないとすれば、自ら所有している稀少な他の物を与えることを条件としてしか、これと交換にこの稀少な物を得ることが出来ない。もしこの物をも所有せず、またこれと交換に与えるべき何ものも有《も》たないとすれば、このままで済ますほかはない。交換価値の事実とはこのようなものであり、所有権の事実と同じく、社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富の上に存在する。
 二五 (3)利用があって量において限られた物は産業により生産せられ得る物であり、または増加し得られるものである。だから規則的組織的努力によってこれらを生産し、その数を出来るだけ多く増加するのが利益である。世の中には雑草や何らの役にも立たない動物のような利用の無い物(有害な物までもいわぬとしても)がある。人々はこれらの物のうちに、これらの物を無用の範疇から有用の範疇に移さしめ得る性質がないかと、注意深く探索する。また利用はあるが量において限り無く存在する物もある。人々はこれを利用しようとはするが、その量を増加しようとはしない。最後に利用があって量において限られた物すなわち稀少な物がある。この最後のもののみが、現在の限られた量をより多くする目的をもつ研究または行動の対象となることが出来るのは明らかである。またこの最後の物は例外無くかかる研究または行動の対象となることが出来るのも明らかである。故にもし既に呼んだように、稀少な物の総体を社会的富と呼べば、産業的生産(production industrielle)または産業(industrie)は、社会的富だけにそしてすべての社会的富に行われる。
 二六 交換価値、産業、所有権、これらは物の量の制限すなわち稀少性によって生ずる三つの一般的事実であり、三つの系列または種類の特種的事実である。そしてこれら三種の事実が動く場面はすべての社会的富であり、また社会的富のみである。そこで今は、例えばロッシのように、経済学は社会的富を研究するものであるというのがたとえ不正確でないとしてもいかに不明瞭で粗雑で非哲学的であるかが解るであろう。実際、経済学はいかなる観点から社会的富を研究するのであるか。その交換価値の観点、すなわち社会的富に行われる売買の現象の観点からか。または産業的生産の観点すなわち社会的富を増加することが有利であるか不利であるかの条件の観点からであるか。最後に社会的富を目的とする所の所有権すなわち専有を合法的または非合法的ならしめる条件の観点からであるか。我々はそれをいわねばならぬ。だが特に注意せねばならぬのは、これら三つまたは二つの観点から同時に研究するのではないことである。なぜなら、容易に解るように、これらの観点は各々全く異っているから。
 二七 稀少な物が一度専有せられるとき、いかにして交換価値を得るかを、私共は先験的に認めた(第二四節)。一般的事実のうちに交換の事実を経験的に認めようと思えば、我々はただ眼を開きさえすればよい。
 我々は皆日々、特種な一系列の行為として、交換すなわち売と買とをなしている。我々のある者は土地または土地の使用または土地の果実を売る。ある者は家または家の使用を売る。ある者は大量に獲得した工業生産物または商品を細分して売る。ある者は診療・弁護・芸術作品・ある日数または時間の労働を売る。これらを売ってこれらの人々は、貨幣を受ける。かくして得た貨幣で人々は、あるときはパン・肉・葡萄酒を購《あがな》い、あるときは衣服を購い、あるときは住居を購い、あるときは家具・宝石・馬車を購い、あるときは原料または労働を購い、あるときは商品・家屋・土地を購い、あるときは種々の企業の株式または債券を購う。
 交換は市場において行われる。ある特種な交換が行われる場所を、我々は特種な市場と考える。例えばヨーロッパ市場・フランス市場・パリ市場、などという。ル・アーヴル(Le Havre)は棉花《めんか》市場であり、ボルドーは葡萄酒の市場であり、食品市場(les halles)といえば果実・野菜・小麦・その他の穀物の市場であり、証券取引所(la bourse)は商業証券の市場である。
 小麦の市場をとれば、そこで与えられた時において五ヘクトリットルの小麦が一二〇フランすなわち九〇パーセントの銀六百グラムと交換せられたとすれば、「小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある」という。これが交換価値の事実である。
 二八 小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。まずこの事実は自然的事実の性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦のこの価値すなわち小麦のこの価格は、売手の意志から生ずるのでもなく、買手の意志から生ずるのでもなく、またこれらの二つの意志の合致から生ずるのでもない。売手はより高く売ろうとするけれども、それをなし得ない。なぜなら小麦はこれ以上の価値が無いからであり、また売手がこの価格で売らなければ、買手は、この価格で売ろうとしている他のある数の売手を見出し得るからである。また買手はより安く買おうとするがそれをなし得ない。なぜなら小麦の価値はこれ以下ではないからであり、また買手がこの価格で買おうとしなければ、売手はこの価格で買おうとするある数の買手を見出し得るからである。
 故に交換価値の事
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