ハを利用している。」
一四 最後にコックランは、科学と政策との区別がいかに経済学の定義とその内容の分け方に応用せられるのに適しかつ有益であるかを、人々に感知せしめようと努力し、次いで附言していう、「科学と政策との間に今から更に純粋な区別を設け、これらの各々に異る名称を与えるように努めるべきであるか、否。私には、この区別を明らかにするだけで足るのであり、それ以上のことは、この問題をよりよく知悉《ちしつ》した者によって、いつかなされるであろう。」
この遠慮は意外である。極めて正当な思想をもっているこの著者が、この思想を実行に移せば与えられるであろう所の愉快と名誉とを、かくも故《ことさ》らに捨てたのは、奇異である。だがそれにも増して奇妙なのは、著者が、何といおうと実際において、経済政策と経済学の区別をなし、経済学の真の目的を決定しようとしながら、それに成功しないで、政策の要素と科学の要素とを混同し、かつ私がセイについて批評しておいたそして彼の弟子らも脱《ぬ》け切れなかった自然主義的重農主義的見方(第七節)を経済社会についてもっていて、そのためにこの見方を消散せしめるどころか、かえって自ら指摘し非難した混同に陥っていることである。彼が「経済科学の目的をなすものは、富かそれとも富の根源である産業か」と問い、また、「経済学の研究の目的として、人々が人間の産業よりはむしろ富をとったのはいかなる理由から来ているか」を考え、また「この誤謬の結果」はいかなるものであるかを考え、更にまた経済科学は、結局、人間の自然史の一分科であるといっているとき、彼はまさしくこの混同をしているのである。最も綿密な注意を払いながらこのような迷路に入るのは不可能であるはずである。
一五 この結果は、科学と政策とを区別する思想さえも、一見見えるようには現在の事情に適するものでないことを信ぜしめる性質を真に帯びている。しかしながら実はこの区別は経済学には完全に適用せられる。そして科学である所の富の理論すなわち交換価値及び価値の理論のあること及び政策である所の富の生産論すなわち農業・工業・商業の理論のあることを信ずるには、学派に囚われることなくわずかに反省するところがあれば足りるのである。ただここで直ちにいっておかねばならぬが、この区別に基礎があるとしても、同時にこの区別は富の分配を度外する故に、不充分である。
直ちにこの確信を得るため、経済学はある所のものの説明であると同時にあるべき所のもののプログラムであると考え得られるといったブランキの所説を想い起してみる。ところであるべき所のものは、あるいは利用または利益の観点から、あるいは公正のまたは正義の観点からのそれなのである。利益の観点からあるべき所のものは応用科学または政策の対象であり、正義の観点からあるべき所のものは道徳学または道徳の対象である。ブランキやガルニエが取扱っているのは、正義の観点から見てあるべき所のものなのである。なぜなら彼らは、経済学は道徳学であるといい、法や正義の概念を論じ、富を最も公平に分配すべき方法を論じているからである(第九節)。反対にコックランはこの見方を明らかにとっていないのであるが、ただ氏は政策と科学の区別を指摘しながら、政策と道徳との区別を指摘することを忘れている。我々はいかなるものをも見逃してはならない。我々は合理的に完全に決定的に区別をなさねばならぬ。
一六 我々は科学と政策と道徳とを相互に区別しなければならぬ。他の言葉でいえば、特に経済学、社会経済学の哲学を明らかにするために、科学一般の哲学の概要を論じなければならぬ。
科学は本体を研究するのでなくして、本体を場面として現われる事実を研究するものであることは、既にプラトーンの哲学によって明らかにせられている。本体は去り、事実は永く残っている。事実とその関係とその法則とがすべての科学的研究の目的である。そして科学は、それが研究する目的すなわち事実の差異によってのみ分かれるのである。だから科学を分けようとすれば、事実が分けられねばならない。
一七 ところでまず世界に発生する事実は二種あると考えられ得る。その一は盲目的で如何《いかん》ともなし難い自然力の働きをその起源とするし、他は人間の聡明で自由な意志にその根源をもつ。第一種の事実の場面は自然である。これらの事実を我々が自然的事実と呼ぶのはこの理由による。第二種の事実の場面は人間社会である。我々がこれらの事実を社会的事実(faits humanitaires)と呼ぶのは、この理由による。宇宙には盲目的でどうすることも出来ない力と並んで、自ら知り自ら抑制する力がある。これは人間の意志である。おそらくはこの力は、自ら信じているほどには、自らを知り、自らを抑制してはいないであろう。このことは、この力の研究だけが理解せしめてくれよう。しかしそれは当面の問題ではない。今重要なのは、この力は自らを知りまたまた少くともある限度の中では抑制し得ることである。そしてこの事実が、この力の効果と他の力の効果との間に深い差異を生ぜしめるのである。自然力の効果については、我々はこれを認識し、識別し、説明することよりほかに為し得ないのは明らかであり、また人間の意志の効果については、まずこれを認識し識別し、説明し、更にこれを支配せねばならぬのは明らかである。これらのことが明らかであるというゆえんは、自然力は行動の意識をもたず、従ってなお更に必然的に動くよりほかに働きようがないからであり、反対に人の意志は行動の意識をもち、かつ種々な態様に働き得るからである。故に自然力の効果は、純粋自然科学または狭義の科学と呼ばれる研究の対象となる。人間の意志の効果はまず純粋精神科学または歴史と称せられる研究の対象となり、次に他の名称例えば政策、道徳等の名を冠せられる所の既に我々が述べてきたような研究の対象となる。だからコックランが科学と政策との間になした区別(第十節)は正当であることになる。「政策は忠告を与え、命令し、指揮する。」なぜかというに、それは人間の意志の働きを根源とする事実を対象とするからであり、また人間の意志は少くともある点までは聡明で自由な力であって、人の意志に忠告を与え、ある行動を命じこれを指導することが出来るからである。科学は「観察し、解明し、説明する。」なぜなら、科学は自然の力の働きを原因とする事実を対象とするからであり、自然の力は盲目で如何《いかん》ともなし難いから、これに対してはこれらの効果を観察し、解明し説明するほか何事をもなし得ないからである。
一八 かようにして私は、コックランのように経験的にではなく、人間の意志の聡明と自由との考察から、科学と政策との区別を理論的に見出した。今は政策と道徳との区別を見出すことが問題である。だが人間の意志の聡明と自由とを考察しまたは少くともこの事実の一つの結果を考察すれば、社会的事実を二つの範疇に分つ原理を得ることが出来よう。
人間の意志が聡明であり自由である事実によって、宇宙のすべての存在は、人格と物との二大種類に分れる。自らを識《し》らないもの、自らを抑制しないすべてのものは物である。自らを識り自らを抑制する者は人格である。人間のみが人格であり、鉱物、植物、動物は物である。
物の目的は人格の目的に合理的に従属している。自覚を有せず自らを抑制しない物は、その目的の追求に対し、またその使命の実現に対し責任をもたない。また物は悪事も善事もなし得ないのであって、常に全く罪が無い。それは純粋の機械装置と同一視される。この点では動物も鉱物、植物と異らない。動物の衝動はすべての自然力の如く盲目的で如何《いかん》ともし難い力に過ぎない。これに反し人格は自覚を有し自らを抑制するという事実のみによって自らその目的を追求せねばならぬという負担を負わされ、その使命の実現の責任を負うのである。もしこの使命を実現すれば、人格は価値があるのであり、もしこの使命を実現しなければ人格は無価値なのである。だから人格は物の目的を自己の目的に従属せしめる能力と自由とをもっている。この能力と自由とは特別な性質をもっている。すなわちそれは道徳的力であり、権利である。これが物に対する人格の権利の基礎である。
しかしすべての物の目的はすべての人格の目的に従属しているのではあるが、ある人格の目的は、他のいかなる人格の目的にも従属していない。もし地上にただ一人の人間しかいないとしたら、彼はすべての物を支配し得るであろう。けれども人は地上に一人ではない。地上にあるすべての人間は互《たがい》に相等しく人格であるから、同じ様に自らの目的を追求する責任を有し、自らの使命を実現する責任をもっている。これらすべての目的、これらすべての使命は互にそれぞれその処を得なければならぬ。そこに人格相互の間の権利と義務の相互関係の根源があるのである。
一九 これによって見ると、社会事実のうちに深い区別がなされなければならぬことが解る。一方自然力に対して働きかけた人間の意志と活動から来る所のもの、すなわち人格と物との関係を区別せねばならぬ。他方他人の意志または活動に対して働く人の意志または活動から来る所のもの、すなわち人格と人格との関係を区別せねばならぬ。これら二つの範疇の事実の法則は本質的に異る。自然力に対して働く人間の意志の目的、人格と物との関係の目的は、物の目的を人格の目的に従属せしめるにある。他人の意志の領域に影響を及ぼす人間の意志の目的、人格と人格との目的は、人の使命の相互の調整にある。
故に、おそらく便利であろうと思われるが、私はこの区別を定義によって定め、第一の範疇の事実の全体を産業(industrie)と呼び、第二の範疇の事実の総体を道徳現象(moeurs)と呼ぶ。産業の理論は応用科学または政策と呼ばれ、道徳現象の理論は精神科学または道徳学と呼ばれる。
従って一つの事実が産業の範疇に属するには、またこの事実の理論が何らかの政策を構成するには、この事実が人間の意志の働きにその起源を有し、かつ物の目的を人格の目的に従属せしめるという観点から人格と物との関係を構成していなければならぬし、またこれだけで足るのである。読者は私が先に引用した政策の例を再び採ってみるなら、それらのいずれにもこの性質があることが解るであろう。例えば既に述べた建築は家の建築要素として木材及び石材を、造船は船舶建造の要素として木材及び鉄を、航海は綱具の製造、帆の据え附けまたは操縦の材料として大麻を用いる。海洋は船舶を支え、風は帆を膨脹せしめ、空と星とは航海者に航路を指示する。
一つの事実が道徳現象の範疇に属するには、そしてこの事実の理論が道徳学の一部門であるためには、この事実が常に人間の意志の働きにその起源を発し、人格の使命の相互の調整という点から見ての人格と人格との関係を成していなければならぬし、またそれだけで足りる。例えば結婚または家族等に関し、夫と妻、親と子の職分と地位を定めるものは道徳である。
二〇 科学、政策、道徳とはこのようなものである。それらのそれぞれの規準は真、利用または利益、善または正義である。さて社会的富及びそれに関係のある事実の完全な研究のうちに、この種の知的研究の一つまたは二つが材料となるものがあろうか、あるいはそれらの三つとも含まれるであろうか。これは、私が富の概念を分析しつつ次章において明らかにしようとする問題である。
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第三章 社会的富について。稀少性から生ずる三つの結果。
交換価値の事実と純粋経済学について
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要目 二一 社会的富は稀少な物、すなわち(一)利用があり、量において限りがある物の総体である。二二 稀少性は科学的用語である。二三、二四、二五 稀少な物のみが、またすべての稀少な物は(一)占有せられ(二)価値を有し交換し得られ(三)産業により生産し得られ増加し得られる。二六 経済学、交換価値の理論、産業の理論、所有権の
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