派の経済学者に宿命論者という形容詞を冠《かぶ》せたが、これはセイのためであった。この派の学者がいかなる程度までこの見方を押しつめていったかは、我々の想像も及ばないほどである。それを知るには経済学辞典(〔Dictionnaire d'e'conomie politique, 2 vol., 1851−3〕)中の記事、例えばシャール・コックラン(Charles Coquelin)が執筆した競争、経済学、産業、コッシュー(Cochut)が執筆した道徳等を読まねばならぬ。そこには最も意味深い諸句が見出される[#「見出される」は底本では「見出させる」]。
 不幸にしてこの見方ははなはだ便利ではあるが、はなはだしく誤《あやまり》でもある。もし人間が高等な動物に過ぎず、例えば本能的に働き本能的に風習を作っている蜜蜂の如くであるとしたら、社会現象一般特に富の生産、分配、消費の解説と説明とは、たしかに自然科学に過ぎず、博物学の一分科、蜜蜂の博物学の続編をなす人間の博物学に過ぎないであろう。だが事実はこれと全く異る。人間は理性と自由とを有し、独創力を有し、進歩をなし得るのである。富の生産と分配に関しては、一般に社会組織のすべての事柄においてと同じく、人間は善と悪との選択をなし得て、悪から次第に善へ向いつつあるのである。だから人々は組合制度、統制の制度、公定価格の制度から、商工業自由のシステム、レッセ・フェール、レッセ・パッセのシステムに、奴隷制度から賃銀制度に移ってきた。最近の制度は古い制度に優っているが、こうなったのは、これらが古い制度よりもより自然的であるが故ではなく(これらは共に人為的であり、前者は後者より人為的である。けだし新しい制度は古い制度の後にしか現われないから)、利益と正義とにより多く合致しているからである。自由放任が必要とされるのは、この合致の証明をなした後においてのみである。社会主義的制度が排斥せられねばならぬとしたら、それは利益と正義とに相反する制度でなければならぬ。
 八 スミスの定義は不完全であるに過ぎないが、セイの定義はこれに劣り、不正確である。またこの定義から出てくる分け方も全く経験的であると、私は附言しておく。所有権の理論、租税の理論は実はまず孤立して考えられた社会人の間の、次に国家として集団的に考えられた人の間の富の分配の唯一の理論の各半面に過ぎないもので、かつ二つは共に道徳の原理に密接に依存しているのであるが、それらは分《わか》たれて一方所有権の理論は生産理論に、他方租税の理論は消費理論に投げ込まれ、共に全く経済的な観点からその理論が立てられている。反対に明らかに自然現象の研究としての性質を具《そな》えている交換理論は分配理論の一部をなしている。もっとも彼の弟子らはこれらの勝手な分類を自由に解釈して、ある者は交換価値の理論を生産理論の中に、ある者は所有権の理論を分配の理論の中に、任意に組み入れている。このようにして今日の経済学は形成せられ教授せられている。しかしこれでは枠が破れていて、ただ表面的に維持されているに過ぎないのではないか。そしてかかる状態においては、経済学者の権利と義務とは、まず入念に科学の哲学を研究することにあるのではあるまいか。
 九 セイの弟子らのある者は、セイの定義の欠点を知っていたが、あえて修正しなかった。アドルフ・ブランキ(Adolphe Blanqui)はいっている。「ドイツ並びにフランスでは、今日経済学は、一般に考えられている領域を脱出している。ある経済学者は経済学を普遍的科学となそうとし、他の人は狭いかつ通俗的に考えられている範囲に限ろうとする。フランスにおいてこれら両極端の意見の間に存する争《あらそい》は、経済学はある所のものの説明であるかまたはあるべき所のもののプログラムを立てるべきものであるか。他の言葉でいえば、それは自然科学であるか規範科学であるかということに関する。私は、経済学がそれらの二つの性質を具えたものであると思う。」ブランキはかかる動機からセイの定義を支持したがこの動機はかえってこれを弱からしめるであろう。
 ブランキに次いで、ジョセフ・ガルニエ(Joseph Garnier)はいっている。「経済学は自然科学であり、同時に規範科学である。これらの二つの観点から、経済学は、ある所のものと、物の自然的流れに従い正義の観念に一致してあるべき所のものとを証明する。」そこでガルニエはセイの定義に少しく附け加えて、それを修正しようとした。曰く、「経済学は富の科学である」すなわちいかにして富が、個人及び社会の利益となるように、最も合理的に(もちろん正義に合するように)生産せられ、分配せられ、消費せられるか、またはせられるべきかを決定することを目的とする科学である」と。ここでガルニエは彼の学派の軌道から離れようとして、真剣でかつ賞讃すべき努力をなしている。しかし二つの定義を接ぎ合して作った合金が、いかに奇妙で支離滅裂であるかを不思議にも彼は認めなかった。これは、経済学者に哲学がないことの好例であって、明快と正確とを主な特質とするフランス経済学者の精神の美点を打ち消してしまう。経済学はいかにして自然科学であり、同時に規範科学であり得るか。いかにしてかかる科学を考え得るか。一方においていかにして富が最も公正に分配せられねばならぬかを研究の目的とする科学が、他方においていかにして富が最も自然的に生産せられるかを研究の目的とする自然科学となり得るか。またこの自然科学は富を豊富に生産すべき技術にもならねばなるまい。要するにセイの定義もスミスのそれに帰するのであって、経済学の真の自然科学的性質は依然として明らかにせられていない。
 私はこれを明らかにしようと思う。必要ならば経済学を自然科学、規範科学、政策に分けよう。そしてそれがため、我々はまずあらかじめ、科学と政策と道徳との区別を明らかにせねばならない。
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    第二章 科学と政策と道徳との区別

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要目 一〇 政策は忠告し、命令し、指導する。科学は観察し、記述し、説明する。一一 科学と政策の区別と理論と実際の区別とは全く別である。一二 科学は政策に光を与える。政策は科学を利用する。一三 一つの科学によって与えられる理論は多くの政策に光を与え得る。一つの政策は多くの科学によって与えられる理論を利用することが出来る。一四、一五 区別は優れているが不充分である。一六 科学は事実の研究である。一七 第一の区別。自然力の働きをその起源とする自然的事実。人間の意志の作用にその起源をもつ人間的事実。自然的及び人間的事実は純粋科学(狭義の科学と歴史)の対象である。一八 第二の区別。産業上の人間的事実、すなわち人格と物との関係。道徳上の人間的事実、すなわち人格と人格との関係。一九 産業的事実は応用科学すなわち政策の対象である。道徳的事実は精神科学すなわち道徳学の対象である。二〇 真。利用。善はそれぞれ科学、政策、道徳の規準である。
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 一〇 既に幾年かを経過していることであるが、好著「信用及び銀行概論」(〔Traite' du cre'dit et des banques〕)の著者でまた「経済学辞典」(〔Dictionnaire d'e'conomie politique〕)の執筆者中最も活動的なかつ尊敬すべき人の一人であったシャール・コックラン(Charles Coquelin)は、この辞典のうち経済学(〔E'conomie politique〕)と題する項において、経済学の定義は未だに完成していないといった。この主張を助けるために彼は、私が既に述べたスミス、セイの定義やシスモンジ、ストルク(Storch)、ロッシ(Rossi)らの定義を示し、それらのいずれも他を排して採らねばならぬほど際立って優れていないと断言し、かつまたこれらの人は自分の著書において自分の定義に従っていないといっている。次に彼は、経済学を定義しようとする者はまずそれが科学であるか、または政策であるか、あるいはそれらの両者であるかを問うべきであり、ことに政策と科学との区別を明らかにすべきであると注意している。これはまことに明敏な注意である。この点について彼が述べている考察は目立って正しく、かつ問題は常に同じ点にあるのであるから、我々はそれを繰り返すほかはない。彼はいう、「政策は従われるべき命令または規則から成り立っている。科学は、ある現象または観察せられたまたは明らかにせられた関係の知識から成立する。政策は忠告を与え、命令し、指導する。科学は観察し記述し、説明する。天文学者が天体の運行を観察し記述するときには、科学を研究している。しかし一度この観察が終了すれば、天文学者は、航海に応用せられる規則を導き出すであろうが、この場合には政策を研究している……かように現実の現象を観察し記述する所に科学がある。命令を下し、規則を規定する所に政策がある。」
 一一 著者はなお註として一つの注意を与えているが、これは科学と政策との区別を完成したもので、ここに引用する価値がある。彼はいう、「我々が科学と政策との間に立てる真の区別は、人々が理論と実践との間になす区別とは何ら共通なものはない。政策の理論もあれば科学の理論もある。そして実践と矛盾することがあり得るであろうといい得るのは、政策の理論についてだけである。政策は規則を命令するが、しかしこれらの規則は一般的である。従ってこれらの命令は、たとい正しいものであっても、ある特別な場合に実践と調和し得ないと考えても不合理ではない。だが何ものをも命ぜず、何ものをもすすめず、ただ観察し説明するに止まる科学にあっては、そうではない。科学はいかなる意味においても実践と衝突することが出来ない。」
 一二 コックランは政策と科学とをかく区別した後、それら各々の職分と重要さとを指摘している。彼はいう、「科学的真理が一度よく認識せられ、導き出されたとき、人間の事業の経営に適用せられるべき規則を、これらから導き出そうとするのに対して、私共は不平でもなければ、またこの企《くわだて》を奇妙だとも思わない。科学的真理が何らの役にも立たぬのは、よいことではない。これらを利用する唯一の方法は、これらから政策を演繹することにある。既にいったように、科学と政策との間には密接な親族関係がある。科学は政策に光明を与え、政策の方法を正しからしめ、その行手を照し指示する。科学の援助が無ければ、政策は一歩ごとに躓《つまづ》きながら跚《よろめ》き歩むことしか出来ない。他方、科学が発見した真理を価値あらしめるものも政策であって、この政策が無ければ、科学の真理も無益である。また科学的研究の主な動機はほとんど常に政策である。人が、知るための興味のみで科学的研究をなすことは稀である。一般に人は、役立つという目的を研究に求めている。そしてこの目的を充《みた》し得るのは、政策によってのみである。」
 一三 しかし彼は科学と政策との間に置くべき区別を同様に強く主張し、かつこの区別を明らかにするために最後の注意を与えているが、これもまた引用の価値がある。彼はいう、「科学と政策とはしばしば多数の接触点をもっているとしても、政策と科学の範囲と輪廓とが同一であるのには、よほど多くの接触点が無ければならぬと考えられるのであって、それほどに右に述べてきた区別が強調せられる。科学が提供する理論は種々の政策によって利用せられることがあり得る。広がりの関係の学問である幾何学は、測量師・技師・砲術家・航海家・建築家の仕事を照し指導する。化学は薬剤師・染物屋・多数の工業に援助を与えている。物理学が提供してくれた一般的理論を、種々の政策がいかに利用しつつあるかを誰が正確にいい得るであろうか。反対に政策は、多くの科学によって提供せられるべき理論から光明を得ることが出来る。ただ一つの例だけを引けば医学すなわち治療の技術は解剖学・生理学・化学・物理学・植物学の理論と結
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