本すなわち生産物に変化せられる用役がある。例えば土地の沃度、労働者の労働、機械道具等の使用などがこれである。それらは生産的用役[#「生産的用役」に傍点](services producteurs)と呼ばれる。後に私は流通の理論において、収入の貯蔵は独特の使用的用役[#「使用的用役」に傍点](service d'usage)を与えるのであるが、同時にまた、消費的または生産的な貯蔵の用役[#「貯蔵の用役」に傍点](service d'approvisionnement)を与え得ることを証明するであろう。消費的用役と生産的用役とのこの区別は、多くの学者が不生産的[#「不生産的」に傍点]消費と生産的[#「生産的」に傍点]消費との間になす区別に等しい。ここで研究しようとするのは、特に、生産的用役の生産物への変形である。
 一七〇 資本と収入との右の定義に拠りながら、私共は、社会的富の全体を四つの主な範疇――その中の三つは資本であり、他の一つは収入である――に分つことが出来る。第一の範疇には土地を属せしめる。公私の庭園・公園とせられた土地、人畜の食料となる果実・蔬菜《そさい》・穀物・牧草等を成長せしめ、木材を成長せしめるすべての土地、住宅・公共の建築物・鉱山の建設物・工場・店舗等が建設せられる土地、道路・街路・運河・鉄路として用いられる土地などは、この範疇に属する。冬季中休止状態にある庭園も、公園も、夏にはまた緑色となって、再び花が開く。今年生産物を出す土地は、また翌年生産物を出す。今年家屋や工場を支えている土地は、翌年もまたこれを支えているであろう。昨年歩んだ道路、街路を、私共は明年も歩むであろう。第一回の使用をしても存続し、その使用の連続は収入を構成する。散策眺望から受ける愉快は、公園、庭園から得られる収入である。生産力は生産用の土地の収入である。建築物に与えられた位置は建築用地の収入である。交通の便益は街路道路の収入である。故に第一範疇に属する資本として土地資本[#「土地資本」に傍点](capitaux fonciers)または土地[#「土地」に傍点](terres)がある。その収入は土地収入[#「土地収入」に傍点](revenus fonciers)または土地用役[#「土地用役」に傍点](services fonciers)と呼ばれ、また地用[#「地用」に傍点](rentes)とも呼ばれる。
 一七一 第二の範疇には人を属せしめる。旅行や享楽のほか何ものもしない人、他の人々のために用役をなす人、馭者《ぎょしゃ》、料理人、下男下女、国家の用役をなす官吏、例えば行政官・裁判官・軍人など、農業・工業・商業に従事する労働者、弁護士、医師、芸術家、自由職業に従事する者などは、皆この範疇に属し、資本である。今日遊楽に耽る閑人は、明日も遊楽に耽るであろう。一日の業をおえた鍛冶屋は、なお幾日もその仕事を続けるであろう。弁護をおえた弁護士は幾度か弁護を繰り返すであろう。かようにして人々は、最初の用役をなした後もなお持続するものであり、彼らがなす一連の用役は彼らの収入を構成する。閑人がなした享楽、職人がなした仕事、弁護士がなした弁護は、これらの人々の収入である。故に第二種類の資本として、人的資本[#「人的資本」に傍点](capitaux personnels)または人[#「人」に傍点](personnes)がある。この人的資本が生ずる収入は、人的収入[#「人的収入」に傍点](revenus personnels)または人的用役[#「人的用役」に傍点](services personnels)と呼ばれ、また労働[#「労働」に傍点](travaux)とも呼ばれる。
 一七二 第三の範疇には、土地または人でなくして資本である他のすべての富を属せしめる。都鄙《とひ》到る所の住宅、公共の建築物、生産設備、工場、倉庫、あらゆる種類の建設物(いうまでもなく、それを支える土地を含ませない)、あらゆる種類の樹木草本、家畜、家具、衣服、書画、彫刻、諸車、宝石、機械、道具等がこれである。これらの物は収入ではなくして、収入を生ずる資本である。私共を居住せしむる家屋はなお永く私共を居住せしめるであろう。私の書画、宝石は常に私の手中にある。今日近隣の都市から旅客貨物を運送した機関車、客車、貨車は、明日もまた同じ線路上に旅客と貨物とを運送するであろう。ところで家屋が提供する居住、書画宝石から得られる装飾、列車によってなされる運送は、これら資本の収入である。故に第三種の資本として動産資本[#「動産資本」に傍点](capitaux mobiliers)または狭義の資本[#「狭義の資本」に傍点]があり、それらの資本が与える収入は動産収入[#「動産収入」に傍点](revenus mobiliers)または動産用役[#「動産用役」に傍点](services mobiliers)と称せられ、また利殖[#「利殖」に傍点](profits)とも呼ばれる。
 一七三 一切の資本はこれら三つの範疇によって尽されているから、社会的富の第四の範疇に属するものとしては、収入しかない。小麦、麦粉、パン、肉類、葡萄酒、ビール、野菜、果実、消費者の用に供する加熱用・灯用の燃料等の消費目的物、再び肥料、種子、原料となる金属、木材、加工せられる繊維、布、生産の用に供せられる加熱用・灯用の燃料、その他生産物となって現われるために原料としては消失すべきすべての物すなわち原料品がこれである。
 一七四 かくて明らかなように、土地、人、狭義の資本は資本である。土地の用役すなわち地用、人の用役すなわち労働、狭義の資本の用役すなわち利殖は収入である。故に正確で精密であるためには、生産要素として、三種の資本と三種の用役、すなわち土地資本、人的資本、動産資本と、土地用役、人的用役、動産用役、更に換言すれば土地と地用、人と労働、資本と利殖を認めなければならぬ。かように修正すれば、通常の用語は、事物の性質に基礎を有するものとして、許容することが出来る。
 土地は自然的[#「自然的」に傍点]資本であって、人為的資本でもなく、また生産せられた資本でもない。また土地は消費し尽されない資本であって、使用により事変により消滅しないものである。だが岩石の上に土を運び、または排水灌漑等により人為的に生産せられた土地資本がある。また地震により河水の氾濫により滅失する土地資本もある。しかしこれらは少数であって、従って少数の例外を除けば、土地資本は消費し尽すことも出来ねば、生産することも出来ない資本であると考えてよい。これら二つの事情は各々その重要性をもつものではあるが、しかしこれらの二つの事情の同時的な存在が、土地資本にその特有な性質を与えるのである。すなわちこれによって、土地の量は厳密に一定不変ではないにしても、少くとも変化の少いものとなり、従って土地のこの量は原始的社会においては、すこぶる豊富であり、進歩した社会においては、人及び狭義の資本の量に比較してはなはだ限られたものとなる。その結果、事実において見るように、土地は、原始社会においては、稀少性も価値もゼロであり、進歩した社会においては、高い稀少性と価値とをもつものである。
 一七五 人もまた自然的資本である。しかし消費され得る資本すなわち使用により破壊せられ、事故により消滅せられ得る資本である。そして人は消滅するが、また生殖によって再び現われてくる。その量もまた一定不変ではなくして、ある条件の下に際限なく増加し得るものである。これについて、一つの解説を加えておかねばならぬ。すなわち、人が自然的資本であり、生殖によって再び現われるといっても、一般に認められつつある社会道徳上の原理すなわち人は物として売買せられるべきものではなく、また家畜のように、農場において増殖し得られるものでもないという原理を斟酌《しんしゃく》せねばならぬ。この理由によって人々は、これを価格の決定理論の中に入れることは無益であると考えるであろう。けれども、まず、人的資本が交換せられるものでないにしても、人的用役すなわち労働は、日々市場において需要し供給せられるし、次に人的資本それ自身も評価せられることがしばしばある。その上、純粋経済学は、正義の観点も利害の観点も全く捨象し、人的資本をも土地資本・動産資本と同様に、もっぱら交換価値の観点から考察するのである。故に、私は、奴隷制度の是非の問題とは無関係に、労働の価格といい、人の価格とさえいうであろう。
 一七六 狭義の資本は人為的資本すなわち生産せられた資本であって、かつ消滅する資本である。おそらく、土地及び人のほかにも、自然的富で同時に資本であるものも、多少はあるであろう。ある種の樹木、ある種の家畜などがそれである。だが土地のほかには、消滅しない資本はほとんど無い。だから狭義の資本は、人のように、破壊せられ、消滅する。しかもそれらは、人のように自然的再生産によってではないが、経済的生産の結果として現われてくる。その量は人の量と同じく、一定の条件において無限に増加せられる。この資本についても、私は一つの解説を加えておかねばならぬ。すなわち資本は常に産業特に農業において、土地と結合しているということが、それである。しかし私共が土地という場合には、住居、または生産用の建造物、囲障、灌漑排水の設備、一言にいえば、狭義の資本から切り離していうのであることを忘れてはならない。また肥料、種子、収穫前の作物等、土地に伴うすべての収入から切り離しているのはいうまでもない。そして、私共が地用と呼ぶのは、かく考えられた土地の用役をいうのであり、利殖という名を与えられるのは、土地が結合した狭義の資本の用役のみである。
 以上述べてきたような諸性質は、土地、人、狭義の資本の区別を説明し、かつこの区別の正当なことを証明する所の重要なものである。しかしこの重要性は、社会経済学において、特に著しく現われるのであって、純粋経済学においては、次編に説明する資本化及び経済的発展に関し、現れるのみである。生産編において予想するのは、土地資本[#「土地資本」は底本では「土地、資本」]、人的資本、動産資本が資本であり、収入ではないということだけである。
 一七七 これだけを前提として、交換におけると同時に、生産においても、自由競争の制度の経済社会において、何故《なにゆえ》にかついかにして土地の用役すなわち地用に対し、人的能力の用役すなわち労働に対し、また狭義の資本の用役[#「資本の用役」は底本では「資本」]すなわち利殖に対し、数学的量である所の市場価格が成立するかを研究する。他の適当な言葉でいえば、地代、賃銀、利子を根とする連立方程式を求めねばならぬのである。
[#改ページ]

    第十八章 生産の要素と生産の機構

[#ここから8字下げ]
要目 一七八 (1)(2)(3) 消費的用役に対する土地資本、人的資本及び動産資本。(4)(5)(6) 生産的用役に対する土地資本、人的資本及び動産資本。(7) 新動産資本。(8) 消費目的物。(9) 原料。(10[#「10」は縦中横]) 新収入。(11[#「11」は縦中横])(12[#「12」は縦中横])(13[#「13」は縦中横]) 流通貨幣及び貯蔵貨幣。一七九 消費目的物。原料及び貨幣について新動産資本、新収入、貯蔵の捨象。一八〇、一八一、一八二 生産資本による収入及び動産資本の生産。一八三 資本のみが実物による貸与が可能である。資本の貸与は用役の販売である。一八四 地主、労働者、資本家、企業者。一八五 用役市場、地代、賃銀、利子。一八六 生産物市場。一八七 この相異なる二つの市場は互いに連絡している。一八八 生産の均衡はこの二市場における交換の均衡と、生産物の売価と原価の均等を想定し、企業者は利益も損失も生じない。
[#ここで字下げ終わり]

 一七八 生産物の価格の数学的決定の問題を研究したとき、交換における自由競争の機構を正確に定義しなければならなかった
前へ 次へ
全58ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
手塚 寿郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング