「る。ところでこの費用とは何か。これを得るに必要な努力であるという。コンジャックによれば、呼吸の行動、物を見るために眼を開く行動、川で水を汲むために屈身する行動等は、これらの財に対して支払う犠牲である。この幼稚な議論は、我々の想像以上にはなはだしばしば主張せられている。けれども、もしこれらの行動を経済的犠牲と呼ぶとしたら、本来の意味の価値という語に対しては他の言葉を見出さねばならぬことは明らかである。私が肉を肉屋に求めるとき、衣服を洋服屋に求めるとき、私はこれらの目的物を得る努力と犠牲とを提供する。しかしこのほかに、私は、これとは全く異る犠牲を払っている。すなわち貨幣の一定量を私のポケットから引出して、商人の利益となるようにしている。
 セイは別な形で答えている。空気、太陽の光線、河川の水は利用がある、だからそれらは価値をもっているのである。それらは無限の価値をもつほど利用があり、必要であり、欠くべからざるものである。我々が何ものをも与えないで、それらの物を得られるのは、まさにこの理由に基く。私共がこれらの物に対して何物をも支払わないのは、これらの物に対しその価格を支払うことが出来ないからである。この説明は巧妙ではあるが、不幸にして、空気、光線、水が代償を支払われる場合がある。それは、これらの物が例外的に稀少な場合である。
 一六〇 私共は、スミスとセイのうちに、さほどの苦心をすることなく、二つの特徴的な節を見出すことが出来た。けれども事実において、これらの著者は、価値の起源にわずかに触れたに過ぎないで、共に、私共が指摘したような不充分な理論のうちに閉じこもっていたといわねばならぬ。先に引用した句の後の方では、セイは利用学説に労働価値説を混《まじ》えた。だがセイは稀少性学説に左袒《さたん》しているようである。スミスは、むしろ幸《さいわい》なことには、土地を労働と同じく富のうちに加えて、矛盾を犯している。ひとりバスチアのみは、イギリス派の理論を組織化しようとして、実際的事実に反するような結論をも自ら承認し、また他の人々をして承認せしめようとした。
 一六一 最後に、ブルラマキが「自然法原論」(〔Ele'ments du droit naturel〕)の第三編第十一章に述べた稀少性理論があるが、これははなはだ優れたものである。
「物の固有の内在的価格(〔prix propre et intrinse`que〕)の基礎は、第一に、この物が生活上の必要、便利、享楽に役立つ適性、一言でいえばこの物の利用と稀少性とである。
「第一に、物の利用というとき、私は、それによって、現実の利用に限らず、宝石の利用のように勝手気ままな利用、好奇心を充す利用に過ぎない利用をも意味せしめているのである。だから、何らの用途のない物は何らの価格を有しないと一般にいわれ得る。
「ところで利用がいかに現実に存在しても、利用のみでは物の価格を生ぜしめるに足りない。その物の稀少性もなければならぬ。すなわちこの物の獲得の困難、人々が欲するだけの量を容易に得ることが出来ない困難さをも考えねばならない。
「なぜなら、人々が一つの物についてもつ欲望はその価格を決定するどころか、人間生活に最も必要な物が、水のように最も廉価であることは、普通に見る所であるから。
「だがまた稀少性のみでも、物に価格を生ぜしめるには不充分である。物に価格があるには、この物にまず何らかの用途がなければならぬ。
「これらが物の価値の真の基礎であるから、価格を増加しまたは減少するものもまた、種々に結合せられたこれらの同じ事情である。
「もしある物の流行が去り、または人々がこの物を重んぜぬようになれば、この物は、以前いかに高価であっても、廉価となる。反対に、費用がほとんどかかっていないありふれた物も、稀少となれば、直ちに価格をもち始め、時にはすこぶる高い価格となることは、例えば乾燥した土地における水、包囲下のまたは航海中のある場合における水に見る如くである。
「一言でいえば、物の価格を高からしめるすべての特殊事情は、この物の稀少性に関係がある。例えば製作の困難なこと、製品の精緻なこと、製作者が名匠であることの如きがこれである。
「自分が所有するある物に対し、ある特殊な理由により、例えばこの物がある人の大きな危険を避けるとか、またはそれがある顕著な事実の記念物であるとか、あるいはまた名誉の象徴であるとかの理由により、この人が、普通に人々が与える以上の評価をなすとき、この価格は好尚の価格または愛著《あいちゃく》の価格(prix d'inclination ou prix d'affection)と呼ばれるのであるが、この価格もまた右の理由と同じ理由に帰せられ得る。」
 これが稀少性学説である。ジェノベエジ僧正(〔Abbe' Genovesi〕)は前世紀の中頃この学説をナポリにおいて教え、シニオル(N. W. Senior)は一八三〇年頃これをオックスフォードにおいて教えた。しかしこれを真に経済学に導き入れた者は私の父である。父は「富の性質と価値の原因について」(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. 1831.)と題した著書の中に、必要なすべての展開を加えながら、これを特別な方法で説明している(一)[#「(一)」は行右小書き]。通常の論理では、父がこの書物でなした以上のことを何人もなし得ぬであろう。そしてより深い研究をなすには、私が用いたように、父も数学的分析の方法を用いざるを得なかったであろう。
 一六二 だが同じ目的のために、この数学的分析の方法を用いたのは私のみではない。ある著者は私より先にこの方法に拠っている。まずドイツ人ヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセンは、一八五四年に公にした著書「人間交通の法則の展開並びにこれにより生ずる人間行為の準則」(〔Entwickelung der Gesetze des menschlichen Verkehrs und der daraus fliessenden Regeln fu:r menschliches Handeln〕)において、次にイギリス人ジェヴォンスは、一八七一年に第一版を、一八七九年に第二版を公にした「経済学の理論」(Theory of Political Economy)において、この方法に拠っている。ゴッセンとジェヴォンスとは共に、かつ後者は前者の著作を知ることなくして、利用または欲望の逓減曲線を作った。またゴッセンは最大利用の条件を、ジェヴォンスは交換方程式を、数学的に導き出した。
 ゴッセンは次の言葉で最大利用の条件を表明している。――二つの商品は[#「二つの商品は」に傍点]、交換後において各交換者が受けた最後の分子が交換者の一方及び双方に対し同じ価値をもつように[#「交換後において各交換者が受けた最後の分子が交換者の一方及び双方に対し同じ価値をもつように」に傍点]、二人の交換者に分配せられなければならぬ[#「二人の交換者に分配せられなければならぬ」に傍点](前掲書八五頁)。今この表現を私共の方式に飜訳するため、二商品を(A)、(B)と呼び、二交換者を(1)、(2)と呼ぶ。r=φa,1[#「a,1」は下付き小文字](q), r=φb,1[#「b,1」は下付き小文字](q) をそれぞれ交換者(1)に対する(A)、(B)の利用曲線の方程式とし、r=φa,2[#「a,2」は下付き小文字](q), r=φb,2[#「b,2」は下付き小文字](q) をそれぞれ交換者(2)に対する(A)、(B)の利用曲線であるとする。qa[#「a」は下付き小文字] を交換者(1)によって所有せられる(A)の量とし、qb[#「b」は下付き小文字] を交換者(2)によって所有せられる(B)の量とし da[#「a」は下付き小文字], db[#「b」は下付き小文字] をそれぞれ交換せられる(A)、(B)の量とする。この条件において、ゴッセンの表現は二つの方程式
[#ここから4字下げ]
φa,1[#「a,1」は下付き小文字](qa[#「a」は下付き小文字]−da[#「a」は下付き小文字])=φa,2[#「a,2」は下付き小文字](da[#「a」は下付き小文字])
φa,2[#「a,2」は下付き小文字](db[#「b」は下付き小文字])=φb,2[#「b,2」は下付き小文字](qb[#「b」は下付き小文字]−db[#「b」は下付き小文字])
[#ここで字下げ終わり]
によって飜訳せられ、これらが交換者(1)、(2)に対する da[#「a」は下付き小文字], db[#「b」は下付き小文字] を決定する。だがかくして得られる利用の最大は、自由競争を条件とする最大でないことは明らかである。すなわちそれは、すべての交換者が共通で同一の比例で自由に二商品を互に与えまたは受ける条件と相容れる所の最大ではないことはいうまでもない。それは、市場において価格は常に一つであるとの条件、及びこの価格において有効需要と有効供給との均衡があるとの条件を考量しない絶対的最大であり、従って所有権の存在を考えない絶対的最大である(二)[#「(二)」は行右小書き]。
 一六三 ジェヴォンスは次のように交換方程式を立てている。――二商品の交換比率は[#「二商品の交換比率は」に傍点]、交換後において消費せられるこれら商品の量の最終利用の反比に等しい[#「交換後において消費せられるこれら商品の量の最終利用の反比に等しい」に傍点](前掲書第二版一〇三頁参照)。そして二商品を(A)、(B)とし、二人の交換者を(1)、(2)とし、φ1[#「1」は下付き小文字], ψ1[#「1」は下付き小文字] でそれぞれ交換者(1)に対する(A)及び(B)の利用函数を示し、φ2[#「2」は下付き小文字], ψ2[#「2」は下付き小文字] でそれぞれ交換者(2)に対する(A)及び(B)の利用函数を表わし、a を交換者(1)が所有する(A)の量とし、b を交換者(2)が所有する(B)の量とし、x, y それぞれ交換せられる(A)、(B)の量とすれば、ジェヴォンスは自ら右の命題を飜訳して次の二つの方程式としている。
[#ここから4字下げ]
[#式(fig45210_124.png)入る]
[#ここで字下げ終わり]
これを私の記号で表せば、
[#ここから4字下げ]
[#式(fig45210_125.png)入る]
[#ここで字下げ終わり]
となり、これにより da[#「a」は下付き小文字] と db[#「b」は下付き小文字] とを決定し得る。この式は私の式と二つの点において異る。第一に、価格は商品の交換せられた量の反比であるが、この概念の代りにジェヴォンスは、交換量の正比でありかつ常に da[#「a」は下付き小文字], db[#「b」は下付き小文字] の二項によって与えられる交換比(〔raison d'e'change〕)という概念を用いている。第二に、ジェヴォンスは二人の交換者の場合をもってすべて問題は解けると考えている。氏は、これらの交換者の各々(取引主体)を、個々人の集団、例えば大陸の全住民、与えられた国における同じ種類の産業に従事する者の集団と考える権利を保留している(九五頁参照)。しかし氏は、このような仮定は現実を離れて、仮設的な平均を考えたものであることを、自ら認めている(九七頁)。私は現実に即しようとするが故に、ジェヴォンスの方式は、ただ二人の人のみが現われる限られた場合に妥当であるとしか、考えない。この場合には、ジェヴォンスの方式は、交換量を価格という概念に代えれば、私の方式と等しくなる。だから、任意数の人がいて、まず互に二商品を、次に任意数の商品を交換しようとする一般的な場合を導き入れるべき仕事が未だ残されていた。これは、ジェヴォンスが価格を問題の未知数としないで、交換せられる量を未知数とするような不適切な思想をもっていたことによるのである。
 一
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