保留しないからである。これらの条件の下においては購買曲線は極めて著しい性質をもつ。それは存在する全量の函数としての価格曲線[#「価格曲線」に傍点]となる。けだしこの曲線の横坐標は縦坐標によって表わされる存在の全量の函数としてのこの商品の価格を与えるからである。
 一五四 (B)を介在せしめ、pb[#「b」は下付き小文字] を決定するために、(A)、(C)、(D)……の間に当初の均衡が成立したと仮定する代りに、(C)を介在せしめ、pc[#「c」は下付き小文字] を決定するために、当初の均衡が(A)、(B)、(D)……の間に成立したと仮定し、または(D)を介在せしめ、pd[#「d」は下付き小文字] を決定するために、当初の均衡が(A)、(B)、(C)……の間に成立したと仮定することも出来よう。従って、各商品はそれぞれの購買曲線をもつものと考え得られ、かつこの曲線は、もし供給を存在の全量に等しいと想像し、かつ大数法則に基いて、前後の需要または供給が比例せねばならぬという条件をも捨象すれば、価格の曲線となる。購買曲線と考えらるべきこの曲線の一般的方程式は D=F(p) となる。価格の曲線と考えられるこの同じ曲線の一般的方程式は Q=F(p) である。もしこれを価格について解かれていると仮定すれば、
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p=F(Q)
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となる。この方程式こそは、まさしく、「富の理論の数学的原理の研究」(一八三八年刊)の中にクールノーが先駆的に立てて、需要の方程式または販売の方程式(〔e'quation de la demande ou du de'bit〕)と呼んだものである。それが利用せられ得る範囲ははなはだ広い。
 一五五 また販売曲線と購買曲線とを、次のようにして交換方程式に結び付けることが出来る。
 (A)を価値尺度財とする。そして一方に商品(A)、(C)、(D)……があって、(A)で表わした(C)、(D)……[#「……」は底本では欠落]の決定した一般均衡価格 pc[#「c」は下付き小文字]=π, pd[#「d」は下付き小文字]=ρ ……で互に交換せられまたは交換せられようとしていると仮定する。他方に(B)が市場に現われ、商品(A)、(C)、(D)……と交換せられようとしていると仮定する。
 (B)が現われると、理論的には、新しい未知数 pb[#「b」は下付き小文字] と一つの方程式

Fb[#「b」は下付き小文字](pb[#「b」は下付き小文字], pc[#「c」は下付き小文字],[#「,」は底本では欠落] pd[#「d」は下付き小文字] ……)=0
[#ここで字下げ終わり]
を新《あらた》に導き入れた交換方程式の体系を新に作らねばならぬ(第一二三節)。ところで先にしたように(第一二七、一二八節)、正のyの合計すなわち Db[#「b」は下付き小文字] を函数 Δb[#「b」は下付き小文字] で示し、負のyの合計を正に変化したものすなわち Ob[#「b」は下付き小文字] を函数 Ωb[#「b」は下付き小文字] で表わせば、右の方程式を、次の形とすることが出来る。
[#ここから4字下げ]
Δb[#「b」は下付き小文字](pb[#「b」は下付き小文字], pc[#「c」は下付き小文字], pd[#「d」は下付き小文字] ……)=Ωb[#「b」は下付き小文字](pb[#「b」は下付き小文字], pc[#「c」は下付き小文字], pd[#「d」は下付き小文字] ……)
[#ここで字下げ終わり]
だがもし既に決定した価格の変動及び有効需要供給の変動を抽象して、それらを常数と考えれば、この方程式の左辺は
[#ここから4字下げ]
Δb[#「b」は下付き小文字](pb[#「b」は下付き小文字], π, ρ ……)
[#ここで字下げ終わり]
となり、一変数 pb[#「b」は下付き小文字] の減少函数である。これは、幾何学には、購買曲線 Bd[#「d」は下付き小文字]Bp[#「p」は下付き小文字](第八図)によって表わされる。右辺は
[#ここから4字下げ]
Ωb[#「b」は下付き小文字](pb[#「b」は下付き小文字], π, ρ ……)
[#ここで字下げ終わり]
となり、同じ変数 pb[#「b」は下付き小文字] の函数であって、初めゼロから増大し次に減少してゼロ(無限遠点において)となる函数である。これは、幾何学的には販売曲線 NP によって表わされる。二つの曲線 Bd[#「d」は下付き小文字]Bp[#「p」は下付き小文字] と NP との交点は価格 pb[#「b」は下付き小文字]=μ を、少くとも近似的に決定する。
 私は後に、同様な方法で、価格曲線を生産方程式に結び付けるであろう。
 一五六 なおこの章を了《お》えるに当って、先に論及した一点について、興味ある註釈を加えておかねばならぬ。すなわち市場に商品が大量に存在する場合には、これら商品の各々の販売曲線は、全部または一部、存在の全量の並行線と一致しないとしても、最も低い価格と最も高い価格の中間の価格の大部分では、それに近づくことは明らかである。従って一般に、多数の商品の相互の交換の場合には、二商品相互の交換の場合に見るように(第六八節)、可能な多数の均衡価格はあり得ない。
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    第十六章 交換価値の原因についてのスミス及びセイの学説の解説と駁論

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要目 一五七 価値の源泉の問題の主要な三つの解答。一五八 スミスの学説すなわち労働価値説。この学説は労働のみが価値を有することを表明するに止り、何故《なにゆえ》に労働が価値を有するかを説明せず、従ってまた、一般に事物の価値がどこから生ずるかを説明しない。一五九、一六〇 セイの学説、すなわち利用価値説、利用は価値の必要条件であるが充分条件ではない。一六一 稀少性の学説。一六二 ゴッセンの極大満足の条件、それが指示する極大利用は自由競争における極大利用ではない。一六三 ジェヴォンスの交換方程式。それは二人の交換者の場合にしか適用されない。一六四 限界効用。
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 一五七 経済学のうちには、価値の原因の問題について、主な三つの解答がある。その一はスミス、リカルド、マカロックのそれであり、イギリス的解答であり、価値の原因を労働に求めるものである。この解答は余りに狭隘《きょうあい》であって、真に価値をもっているものにも、価値の存在を拒否している。その二はコンジャック、セイのそれであり、価値の原因を利用に置く。いずれかといえば、これはフランス的解答である。この解答は余りに広汎に過ぎ、実際に価値をもたない物にも、価値を認めている。最後にその三は適切なものであり、ブルラマキ(Burlamaqui)及び私の父オーギュスト・ワルラス(Auguste Walras)の解答であって、価値の原因を稀少性に置く。
 一五八 スミスはその学説を国富論の第一編第五章に、次の言葉でいい表わしている。
「すべての物の真の価格、すべての物がこれを獲《え》ようとする人に真実に費さしめる所のものは、彼がこれを獲るために費さなければならぬ労働と苦痛とである。すべての物が、これを獲得した人またはこれを処分しようとする人またはこれをある他の物と交換しようとする人に対し値する所は、この物の所有が彼をして省くことを得させる苦痛と面倒、または他の人に課することを得させる苦痛と面倒である。人が貨幣または商品で購う物は、私共が私共の額に汗して得る所の物と同じく、労働によって得られる。この貨幣と商品とは実にこの苦痛を省くものである。それらは労働のある一定量の価値を含む。これを私共は、等しい量の労働の価値を含むと考えられる物と交換する。労働は最初の貨幣であり、すべての物の購買に支払われる貨幣である。世界のいかなる富も、原本的には労働をもってしか購い得ない。これらを所有する者またはこれらを新しい生産物と交換しようとする人に対してのこれらの価値は、これらが購買し、支配せしめるであろう所の労働量とまさしく相等しいのである。」
 この理論に対しては、多数の論駁があったが、これらは一般に適切ではなかった。スミスの理論は、その本質において、価値があり交換せられるすべての物は、労働が種々な形式をとったものであり、労働のみが社会的富のすべてを構成すると主張するものである。そこで人々は、価値があって交換せられる物でありながら、労働によって成立していない物を示し、あるいはまた、労働以外に社会的富を構成する物があることを示して、スミスのこの理論を拒否しようとする。だがこの論駁も合理的ではない。労働のみが社会的富を構成するかまたは労働は社会的富の一種を構成するに過ぎないかは、私共には余り関係のない問題である。それらのいずれの場合にも、何故《なにゆえ》に労働には価値があり、また何故《なにゆえ》に労働は交換せられるのであるか。ここに私共の関する問題があるのであるが、スミスはこの問題を提出もしなければ、解決もしなかった。ところで労働が価値あり、交換せられるものであるとしたら、それは、労働が利用をもちかつ量において限られているからである、すなわち労働が稀少であるからである(第一〇一節)。故に価値は稀少性から来るものであり、稀少なすべての物は労働を含むと否とにかかわらず、労働のように価値をもち、交換せられる。だから価値の原因を労働であるとする理論は、余りに狭隘であるというよりは、全く内容の無い理論であり、不正確な断定であるというよりは、むしろ根拠のない断定である。
 一五九 次に第二の解答について見るに、セイは彼の著作の「経済学問答」(〔Cate'chisme d'e'conomie politique〕)の第二章において、次のように書いている。
「何故《なにゆえ》に一つの物の利用はこの物に価値を生ぜしめるかといえば、物がもっている利用は、この物を望ましい物とならしめ、かつこの物の獲得のために人々をして犠牲を払わしめるからである。何らの役にも立たぬ物を獲得するために、何らかの物を与えようとする人はない。これに反し、自分が欲望を感ずる物を獲得するためには、人々は、自分が所有する物のある量(例えば貨幣の一定量)を与える。価値を生ぜしめるものはこれである。」
 これは、確かに価値の原因の証明の一つの試みである。だがこの試みは成功していないといわねばならぬ。「物の利用はこの物を望ましいものとならしめる」ことはもちろんである。かつ「この利用は、人々をして、この物を所有するためにある犠牲を払わしめる。」しかしこれは一様にはいわれ得ない。利用は、人々がこの利用を得るために犠牲を費さねばならないときにのみ、人々をしてこれを払わしめるに止まる。「人は、何らの役にも立たないものを得るためには何ものも与えようとはしない。」これはもちろんである。「反対に、人は、欲望を感ずる物を得るためには、自分が所有する物のある量を与える。」だがこれは、この物を得るに何物かを交換に与えねばならない場合に、いわれ得ることである。だから利用は価値を創造するには足りない。価値の創造には、更に、利用のある物が無限量に存在せず、稀少であることを必要とする。この理論は事実によっても証明せられている。呼吸せられる空気、帆船の帆を膨脹せしめる風、風車を廻転せしめる風、作物果実を成長せしめ光沢を与えてくれる太陽の光線、水、熱せられた水が提供してくれる蒸気、その他多くの自然力は、利用があり、また必要でもある。けれどもこれらの物は価値をもっていない。なぜなら、それらが充分に存在さえすれば、何ものも与えることなく、また交換に何らの犠牲を払うことなく、欲するままに得られるからである。
 コンジャックとセイとは共にこの批難に遭遇した。そして二人は各々異る形でこれらに答えた。コンジャックは空気、光、水を非常に利用のあるものと見、これらの物は実際において何らかの費用を要するものであると主張しようと企てて
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