夜はへなば涼しかるらむ
月見草けぶるが如くにほへれば松の木の間に月缺けて低し
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八月一日、病棟の蔭なる朝顔三日ばかりこのかた漸くに一つ二つとさきいづ
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嗽ひしてすなはちみれば朝顔の藍また殖えて涼しかりけり
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三日夕、整形外科の教室の蔭に手をたてゝおびたゞしく絡ませたるをはじめてみて知る、餘りに日に疎ければ
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朝顔の赤は萎まずむき捨てし瓜の皮など乾く夕日に
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四日
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あさがほの藍のうすきが唯一つ縋りてさびし小雨さへふり
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彼の垣根のもとに草履はきておりたつ
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朝顔のかきねに立てばひそやかに睫にほそき雨かゝりけり
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六日
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かつ/\も土を偃ひたる朝顔のさきぬといへば只白ばかり
鍼の如く 其の五
一
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八月十四日、退院
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朝顔は蔓もて偃へれおもはぬに榊の枝に赤き花一つ
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十六日朝、博多を立つ、日まだ高きに人吉に下車し林の温泉といふにやどる、暑さのはげしくなりてより身はいたく疲れにたりけるを俄かに長途にのぼりたることなれば只管に熱の出でんことをのみ恐れて
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手を當てゝ心もとなき腋草に冷たき汗はにじみ居にけり
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十八日、日向の小林より乘合馬車に身をすぼめて、まだ夜のほどに宮崎へこゝろざす
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草深き垣根にけぶる烏瓜《たまづさ》にいさゝか眠き夜は明けにけり
霧島は馬の蹄にたてゝゆく埃のなかに遠ぞきにけり
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十九日、宮崎より南の方折生迫といふにいたる、青島目睫の間に横はりてうるはしけれど、此の日より驟雨いたりてやがて連日の時化に變りたれば、心落ち居る暇もなきに漁村のならはし食料の蓄もなければ
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かくしつゝ我は痩せむと茶を掛けて硬《こは》き飯はむ豈うまからず
酢をかけて咽喉こそばゆき芋殼の乏しき皿に箸つけにけり
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二十五日に入りて、雨は更に戸を打つこと劇しくして止むべきけしきもなし
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痺れたる手枕解きて外をみれば雨打ち亂し潮の霧飛ぶ
噛みさ噛み疾風は潮をいぶく處《ど》に衣も疊もぬれにけるかも
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二十六日、漸くにして晴る、やどは松林のほとりにひとり離れて建てられたるが、道も庭も松葉散り敷きてあたりは狼藉たり
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木に絡む糸瓜の花は此の朝は萎えてさきぬ痛みたるらむ
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おなじく松林のほとり、少し隔てゝ壁くづれ落ちてかつかつも住みなしたるあり、けさは殊に凄じきさまに
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しめりたる松葉を竈《くど》に焚くけぶり糸瓜の花にまつはりてけぬ
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二十七日、宮崎にのがる、明くれば大淀川のほとりを※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]ふ
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朝まだき涼しくわたる橋の上に霧島低く沈みたり見ゆ
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三十一日、内海の港より船に乘りて吹毛井といふところにつく、次の日は朝の程に鵜戸の窟にまうでゝ其の日ひと日は樓上にいねてやすらふ
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手枕に疊のあとのこちたきに幾時われは眠りたるらむ
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懶き身をおこしてやがて呆然として遠く目を放つ
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うるはしき鵜戸《うど》の入江の懷にかへる舟かも沖に帆は滿つ
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渚にちかく檐を掩ひて一樹の松そばだちたるが、枕のほとりいつしか落葉のこぼれたるをみる
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松の葉を吹き込むかぜの涼しきに咽びてわれはさめにけらしも
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二日、油津の港へつきて更に飫肥にいたる、枕流亭にやどる、欄のもと僅に芋をつくりたるあり心を惹く
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ころぶせば枕に響く淺川に芋洗ふ子もが月白くうけり
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四日、油津の港より乘りて外の浦といふところへわたる、漸くにして探しあてたるはわびしき宿なれども靜かなる入江もみえたれば、もとより戸は立てしめず、閾の際に枕したれば月はまどかにして蚊帳のうちをうかゞふ
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※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]越しに雨のしぶきの冷たきに二たびめざめ明けにけるかも
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六日、波荒き海上を折生迫の漁村にもどる、此の夜おもひつゞくることありてふくるまで眠らず
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草に棄てし西瓜の種が隱《こも》りなく松虫きこゆ海の鳴る夜に
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八日、陰晴定めなき季節のならはし、雨をり/\はげしく障子を打つ
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横しぶく雨のしげきに戸を立てゝ今宵は虫はきこえざるらむ
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九日、再び時化になりたればまた宮崎にのがる、人のもとにて梨瓜といふを皿に盛りてすゝめらる、此の地方西瓜と共に瓜を産することおびたゞし
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瓜むくと幼き時ゆせしがごと竪さに割かば尚うまからむ
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十三日、漸く折生迫にもどれば同人の手紙などとゞきて居たるを一つ/\と披きみてはくりかへしつゝ
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とこしへに慰もる人もあらなくに枕に潮のをらぶ夜は憂し
むらぎもの心はもとな遮莫をとめのことは暫し語らず
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夜は苦しき眠りに落つるまで、虫の聲々あはれに懷しく
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こほろぎのしめらに鳴けば鬼灯の庭のくまみをおもひつゝ聽く
こほろぎはひたすら物に怖れどもおのれ健かに草に居て鳴く
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十四日
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蝕ばみて鬼灯赤き草むらに朝は嗽ひの水すてにけり
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午に近くたま/\海岸をさまよふ
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草村にさける南瓜の花共に疲れてたゆきこほろぎの聲
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海もくまなく晴れたれば、あたりは只一時に目をひらきたるがごとし
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鯛とると舟が帆掛けて亂れゝば沖は俄かに濶くなりにけり
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豊後國へわたる船を待たむと此の日内海にいたりてやどる
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此の宵はこほろぎ近し廚なる笊の菜などに居てか鳴くらむ
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十八日、きのふ別府の港につきてけふは大分の郊外に石佛を探り汗ながしてかへれるに、夕近くなりて慌しく肌衣とりいだす
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こゝろよき刺身の皿の紫蘇の實に秋は俄かに冷えいでにけり
二
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二十二日、博多なる千代の松原にもどりて、また日ごとに病院にかよふ
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此のごろは淺蜊々々と呼ぶ聲もすゞしく朝の嗽ひせりけり
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三十日、雨つめたし、百穗氏の秋海棠を描きたる葉書とりいだしてみる、庭にはじめてさけりとあり
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うなだれし秋海棠にふる雨はいたくはふらず只白くあれな
いさゝかは肌はひゆとも單衣きて秋海棠はみるべかるらし
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ゆくりなくも宿のせまき庭なる朝顔の垣をのぞきみて
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秋雨のひねもすふりて夕されば朝顔の花萎まざりけり
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十月一日、庭のあさがほけさは一つも花をつけず
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朝顔の垣はむなしき秋雨をわびつゝけふも復たいねてあらむ
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病院の門を入りて懷しきは、只※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]頭の花のみなり
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※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]頭は冷たき秋の日にはえていよ/\赤く冴えにけるかも
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十日、再び秋草のたよりいたる、萎えたるこゝろしばらくは慰む
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刈萱と秋海棠とまじりぬと未だはみねどかなひたるべし
わびしくも痩せたる草の刈萱は秋海棠の雨ながらみむ
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日ごろは熱たかければ、日ねもす蒲團引き被りてのみ苦しみける程に、もとより入浴することもなかりけるが、たまたま十八日の朝まだき、まださくやらむと朝顔のあはれに小さくふゝみたる裏戸をあけていでゆく
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浴みして手拭ひゆる朝寒みまだ蕾なり其のあさがほは
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小さき蚊帳のうちに獨りさびしく身を横たふるは常のならはしにして、また我が好むところなるに、ましてこゝは藪蚊のおほきところなれば只いつまでも吊らせてありけるが
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幾夜さを蚊帳に別れてながき夜のほのかに愁し雨のふる夜は
古蚊帳のひさしく吊りし綻びもなか/\いまは懷しみこそ
三
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吸入室の窓のもとに、一坪ばかり庭の砂掻きよせて苗を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]してありけるが、夏の日にも枯れず、秋もたけて漸く一尺餘りになりたればいまは日ごとに目につくやうになりけるを、十一月十一日、折から時雨の空掻きくもりて騷がしきに
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はら/\と松葉吹きこぼす狹庭には皆白菊の花さきにけり
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次の日、庭は熊手もてくまなく掻きはらはれたれど
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白菊のまばら/\はおもしろくこぼれ松葉を砂のへに敷く
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十四日、夜にいりて雨やまざれど俄かにおもひ立つことありて久保博士をおとなふ
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しめやかに雨の淺夜を籠ながら山茶花の花こぼれ居にけり
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俄かに九度近くのぼりたる熱さむることもなく、三十日ばかりの間は只引きこもりてありければ、常は季節に疎しともおもはざりける身の山茶花の花をみることもはじめてなればいま更のごとく驚かれぬるに
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吸物にいさゝか泛けし柚子の皮の黄に染みたるも久しかりけり
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幾時なるらむ、めざめて雨のはげしきおとをきく
[#ここで字下げ終わり]
松の葉は復たこぼるらし小夜ふけて廂に雨の當るをきけば
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十五日、ふとかの十坪に足らぬ裏の庭をみおろすに、そこにもわかき木の一もとはありて
[#ここで字下げ終わり]
ひそやかに下枝ばかりにひらきたる山茶花白くこぼれたり見ゆ
山茶花はさけばすなはちこぼれつゝ幾ばく久にあらむとすらむ
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十六日、このごろ熱低くなりたれば、始めて人をたづねていづ、空晴れて快し
[#ここで字下げ終わり]
不知火の國のさかひにうるはしき背振の山は暖かに見ゆ
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ひとの垣に添うてゆく
[#ここで字下げ終わり]
山茶花はあまたも散れば土にして白きをみむに垣内《かきち》には立つ
[#ここから6字下げ]
雀の好む木なれば必ずさへずりかはすをみる
[#ここで字下げ終わり]
山茶花に雀はすだくときにだに姿うつくしくあれなとぞおもふ
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わかき女のさげもてゆくものを
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手に持てる茶の木の枝に括られて黄に凝りたる草の花何
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十九日、復たいでありく、朱欒の青きがそここゝの店に置かれてまだ一つ二つは殘りたらむとおもふに、梢に垂れたるは皆既にいろづきたるにおどろく
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竿に釣りて朱欒《ざぼん》のうへの白足袋は乾きたるらし動きつゝみゆ
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