長塚節歌集 下
長塚節

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)街《ちまた》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)紙|貼《は》る

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]

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(例)ます/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 明治四十四年


    乘鞍岳を憶ふ

落葉松の溪に鵙鳴く淺山ゆ見し乘鞍は天に遙かなりき

鵙の聲透りて響く秋の空にとがりて白き乘鞍を見し

我が攀ぢし草の低山木を絶えて乘鞍岳をつばらかにせり

おほにして過ぎば過ぐべき遠山の乘鞍岳をかしこみ我が見し

乘鞍と耳に聲響きかへり見て何ぞもいたく胸さわぎせし

おもはぬに天に我が見し乘鞍は然かと人いはゞあらぬ山も猶

くしびなる山は乘鞍かしこきろ山の姿は目にかにかくに

乘鞍をまことにいへば只白く山の間に見し峰をそを我れは

うるはしみ見し乘鞍は遠くして一目といへどながく矜らむ

乘鞍はさやけく白し濁りたるなべてが空に只一つのみ

おろそかに仰げば低き蒼空を遙にせんと乘鞍は立てり

乘鞍は一目我が見て一つのみ目にある姿我が目に我れ見つ

まなかひに俤消たずたふときもの山に乘鞍人にはたありや

乘鞍は一目見しかばおごそかに年を深めてます/\思ほゆ
[#改ページ]

 明治四十五年

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喉頭結核といふ恐しき病ひにかゝりしに知らでありければ心にも止めざりしを打ち捨ておかば餘命は僅かに一年を保つに過ぎざるべしといへばさすがに心はいたくうち騷がれて
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生きも死にも天のまに/\と平らけく思ひたりしは常の時なりき

我が命惜しと悲しといはまくを恥ぢて思ひしは皆昔なり

往きかひのしげき街《ちまた》の人皆を冬木の如もさびしらに見つ

我が心萎えてあれや街行く人の一人も病めりとも見ず

知らなくてありなむものを一夜ゆゑ心はいまは昨日にも似ず

かくのみに心はいたく思へれや目さめて見れば汗あえにけり

しかといはゞ母嘆かむと思ひつゝたゞにいひやり母に知るべく

なにしかも命悲しといはまくに答ふることは我は知らぬに

なうれひそと人はいへどもまたけくてあらばかあらむ我愁ひざれや

人は我ははかなきものかひたすらに悲しといふもわがためにのみ

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病院の一室に年を迎へて
[#ここで字下げ終わり]

我が命としほぎ草のさち草の日蔭《ひかげ》の蔓《かづら》ながくとをのる

衰ふる我が顔さびしこゝにだにあけに映えよとあけの紙|貼《は》る

    病中雜咏
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明治四拾四年十二月廿四日、ふと出でありくことありて此の日ばかり夜に入りて病室に歸り來れば、むすびし儘に派手なる袱紗のつゝみ一つ電燈のもとにおかれたり、怪みて解きみれば我が爲に心づくしの品は出できにたるに、赤きインキもて書かれし手紙も添へられつ、四たびまで立ち入りがてに病院の門を行き過して、けふ始めておとづれきといふに思ひ設けぬことなれば待たんやうもなく、今は悔ゆれども及ばずなりぬ、されどわれ生れて卅三年はじめて婦人の情味を解したるを覺えぬ、我は感謝の念に堪へず、其の人一たびは我と手を携ふべかりつるに悪性の病生じたれば我に引き止めむ力もなく、斯くて離れたるものゝ合ふべき機會は永久に失はれ果てぬ、其の夜はふくるまで思の限り長き手紙に筆執りて、生涯の願いま一たびおとづれ給ひてんやと書きつけゝるを、夜もすがら思は掻亂れて、明くれば痛き頭を抑へつゝ庭の寒き梢に目を放ちて
[#ここで字下げ終わり]

四十雀なにさはいそぐこゝにある松が枝にはしばしだに居よ

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袱紗の地はつゆ草の花のいろなるを、人は鬼怒川のみなかみに我とおなじ西岸に棲めれば、想を故郷の秋に馳するに、なよ/\とせるつゆ草の馬の腹七たび過ぐれども根は絶えずなど俚言に聞きけることもいまはなか/\に懷しく
[#ここで字下げ終わり]

鬼怒川の篠に交れる鴨跖草は刈る人なしに老ゆといはずやも

鬼怒川の岸のつゆ草打ち浸りさゝやくことは我はきけども

鴨跖草を岸に復た見ば我が思ふ人のあたりゆ持てりとを見む

いまにして人はすべなし鴨跖草《つゆぐさ》の夕さく花を求むるが如

つゆ草の花を思へばうなかぶし我には見えし其の人おもほゆ

からまるを否とたれかいふ鴨跖草の蔓だに絡め我はさびしゑ

病みてあればともしきものかつゆ草は馬がはめども枯れなくといふに

鴨跖草の種はあまたもこぼれども我がには生えずなにゝかはせむ

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既に五十日にも餘りぬれば我が病院生活も半を過ぎたらむと思ふに、待つ人の遂に來らねば徒らにおもひを焦すに過ぎず醫術の限を竭して後は病はいかに成り行くべきかと心もこゝろもとなくて、一月廿三日の夜いたく深くる程に筆とりて
[#ここで字下げ終わり]

我が病いえなばうれし癒えて去なばいづべの方にあが人を待たむ

あまたゝび空しく門は過ぎゝとふ人はかへしぬ我が思止まず

癒えぬべきたどきも知らず病みたれば悲しと來しに我は逢はぬに

こゝにして來なば來なむと待つ人のこゝにも來ねばいつとてか見む

霜柱庭に立てれば石踏みて來とさへいひてやりける人を

いたづらに思ひたのめて人待つと氷は閉ぢて解けにけらずや

さきはひを人は復た獲よさもあらばあれ我が泣く心拭ひあへなくに

おほよそは心は嘗ていはなくに思ひ堪へねばいひにけるかも

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又庭にある山茶花のあはれにさきのこれるに僅に懷をやるとて
[#ここで字下げ終わり]

打ち萎え我にも似たる山茶花の凍れる花は見る人もなし

山茶花のわびしき花よ人われも生きの限りは思ひ嘆かむ

山茶花は萎えていまは凍れども命なる間は豈散らめやも

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尚さま/″\におもひつゞけて
[#ここで字下げ終わり]

我を思ふ母をおもへばいづべにかはぐゝもるべき人さへ思ほゆ

我病めば母は嘆きぬ我が母のなげきは人にありこすなゆめ

生命あらば見るよしもあらむしかすがに人やも母といはゞすべなし

我がおもふ人はさきはへ世の中のなべての母は皆嘆けども

おもかげに母おもひ見れば人遂に母たりなむと思ひ悲しも

我が母の肉《しゝ》のゆるびは嘆き故あを思ふ故にわれすべもなし

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一月廿六日、彼の袱紗ゆくりなく手にとることありしに、糸巻の型の染め抜かれたるが今更に目に映れば
[#ここで字下げ終わり]

とこしへに解かむすべなし苧環《をだまき》のあまたはあれど手にもとれねば

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をだまきといへばすゞろに懷しき故郷の庭なる※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜のうへにも及びぬれば
[#ここで字下げ終わり]

あまたゝび冬には逢へど枯れざりし庭の※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜《をだまき》かれなくてあれな

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此の日、ひねもすに雨ふる、なにごとにも母のおもひ出でられて
[#ここで字下げ終わり]

我さへにこのふる雨のわびしきにいかにかいます母は一人して

いさゝかのゆがめる障子引き立てゝなに見ておはす母が目に見ゆ

張り換へむ障子もはらず來にければくらくぞあらむ母は目よわきに

こゝにしてすゝびし障子懷へれば母よと我は喚ぶべくなりぬ

※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜を母と二人が見てし日は障子はいまだ白かりしかど

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病室の内に雨を聽き暮して明くればまだきに彼の山茶花のもとに思ひ煩ひて
[#ここで字下げ終わり]

からくして低きが枝にのこれりし山茶花のはな散りにけるかも

山茶花のはかなき花は雨故に土には散りて流されにけり

山茶花のあけの空しく散る花を血にかも散ると思ひ我が見る

山茶花はむなしくなりぬ我が病癒えむと告ぐる言も聞かなくに

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仔細に見るに葉の間に半開の蕾只一つすがりたるがいとほしくて
[#ここで字下げ終わり]

山茶花よそをだに見むと思へるに散らなくあれな我が去ぬるまでに

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二月廿日といふに漸く病院を出づ、七十八日の間我を慰めし花は只一株の山茶花に過ぎざりけるを、けふを限りと復た更に其の傍に立ちて見るに、思はざる花の綻びたるがそれも彼方に一つ此方に一つと只二つのみに餘所にはふゝめる枝もなし、此の花遂に我がためにのみさきつくしけるにこそとさへ思ひいでられて
[#ここで字下げ終わり]

我がおもふ人にあらなくに山茶花は一樹が枝に相隔りぬ

山茶花の畢《つひ》なる花は枝ながら背きてさけり我は向けども

山茶花のはなは見果てゝ去ぬらくに人は在處《ありど》も知るよしもなく

此の如ありける花を世の中に一人ぞ思ふ其の遙けきも

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三月七日、暫しが程と郷にかへる、三日ばかりして歸りこんと出で行きて既に四月にもなりたれば、あたりはさながら忘れ去りたるやうなるを一日二日とある程に
[#ここで字下げ終わり]

ゆくりなく拗切《ちぎ》りてみつる蠶豆の青臭くして懷しきかも

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蠶豆はまだ短くして、たとへば土に落ちたる生石灰の石のやうなるが自ら水分をふくみてほとびつゝあるが如し、我も此より遠く西國の旅に赴かむとすれば
[#ここで字下げ終わり]

蠶豆の柱の如き莖たゝばいづべに我は人おもひ居らむ

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病院より旅宿とありける間は夜具を干しくるゝ人もなかりけるを、ひと日母が手して竿に掛けさせければ我も日毎にかくしつゝ
[#ここで字下げ終わり]

日に干せば日向臭しと母のいひし衾《ふすま》はうれし軟かにして

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日に疎き庭は土質悪しければ、冬の程には箒もあて難きに杉の大木聳え立ちたれば落葉もいたく亂れにけるを
[#ここで字下げ終わり]

あまたあれば杉の落葉のいぶせきに梅の花白しそのいぶせきに

杉の葉の梅の木にして懸れるを見つゝ佇むそのさゆらぐを

掃かざりし杉の落葉を熊手もて掻かしめしかば心すがしき

我がさとはかくしもありき庭にして落葉掻き集む梅さへ散るに

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三月十三日、朝のほど雨ふる
[#ここで字下げ終わり]

外に立てどいくだもぬれぬ春雨を棕櫚の葉に聞く外に立ちしかば

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雨はやがて雪にかはりたれば寒さ身にしむに母と相對して火鉢に手を翳す
[#ここで字下げ終わり]

桑の根の炭はいぶせし火を吹くと皮がはねつる吹かなくてあらむ

    病中雜咏(補遺)

いたづきは癒えなむのぞみありぬべしいためる心いゆる時あれや

ま悲しき花は山茶花日にしてはいくたび見つる思ひかねては
[#改ページ]

 大正三年

    鍼の如く 其の一

     一

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秋海棠の畫に
[#ここで字下げ終わり]

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

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りんだうの畫に
[#ここで字下げ終わり]

曳き入れて栗毛繋げどわかぬまで櫟林はいろづきにけり

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夜半ふとおどろきめざめて
[#ここで字下げ終わり]

無花果に干したる足袋や忘れけむと心もとなき雨あわたゞし

     二

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上州入山の山中にて
[#ここで字下げ終わり]

唐黍の花の梢にひとつづゝ蜻蛉《あきつ》をとめて夕さりにけり

[#ここから6字下げ]
歸路
[#ここで字下げ終わり]

うなかぶし獨し來ればまなかひに我が足袋白き冬の月かも

たもとほり榛が林に見し月をそびらに負ひてかへり來われは

[#ここから6字下げ]
博多所見
[#ここで字下げ終わり]

しめやかに雨過ぎしかば市の灯はみながら涼し枇杷堆し

[#ここから6字下げ]

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