肥後に入る
[#ここで字下げ終わり]
球磨《くま》川の淺瀬をのぼる藁船は燭奴《つけぎ》の如き帆をみなあげて
三
山吹は折ればやさしき枝毎に裂きてもをかし草などの如
西瓜割れば赤きがうれしゆがまへず二つに割れば矜らくもうれし
菜豆《いんげん》はにほひかそけく膝にして白きが落つも莢をしむけば
そこらくに藜をつみて茹でしかば咽喉こそばゆく春はいにけり
おしなべて白膠木《ぬるで》の木の實鹽ふけば土は凍りて霜ふりにけり
枳※[#「木+惧のつくり」、第4水準2−15−7]《けんぽなし》さびしき枝の葉は落ちて骨ばかりなる冬の霜かも
楢の木の嫩葉は白し軟かに單衣の肌に日は透りけり
芝栗の青きはあましかにかくに一つ二つは口もてぞむく
松が枝にるりが竊に來て鳴くと庭しめやかに春雨はふり
草臥を母とかたれば肩に乘る子猫もおもき春の宵かも
移し植うと折れたる枝の錢菊は※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]すにこちたし棄てまくも惜し
藁の火に胡麻を熬るに似て子雀《こがらめ》の騷ぐ聲遠く霧晴れむとす
洗ひ米かわきて白きさ筵に竊に椶櫚の花こぼれ居り
楢の木の枯木の中に幹白き辛夷はなさき空蒼く濶し
四
落栗は一つもうれし思はぬにあまたもあれば尚更にうれし
秋の日は枝々洩りて牛草のまばら/\は土のへに射す
柿の樹に梯子掛けたれば藪越しに隣の庭の柚子黄み見ゆ
雀鳴くあしたの霜の白きうへにしづかに落つる山茶花の花
藁掛けし梢に照れる柚子の實のかたへは青く冬さりにけり
倒れたる椎の木故に庭に射す冬の日廣くなりにけるかも
梧桐の幹の青きに涙なすしづく流れて春雨ぞふる
冬の日はつれなく入りぬさかさまに空の底ひに落ちつゝかあらむ
桑の木の低きがうれに尾をゆりて鵙も鳴かねば冬さりにけり
五
[#ここから6字下げ]
病院の生活も既に久しく成りける程に四月廿七日、夜おそく手紙つきぬ、女の手なり
[#ここで字下げ終わり]
春雨にぬれてとゞけば見すまじき手紙の糊もはげて居にけり
[#ここから6字下げ]
五月六日、立ふぢ、きんせん、ひめじをんなどくさ/″\の花もて來てくれぬ、手紙の主なり、寂しき枕頭にとりもあへず
[#ここで字下げ終わり]
藥壜さがしもてれば行春のしどろに草の花活けにけり
[#ここから6字下げ]
草の花はやがて衰へゆけども、せめてはすき透りたる壜の水のあたらしきを欲すと
[#ここで字下げ終わり]
いさゝかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も觸れて見し
[#ここから6字下げ]
いつの間にか、立ふぢは捨てられ、きんせんはぞろりとこぼれたるに、夏の草なればにや矢車のみひとりいつまでも心強げに見ゆれば
[#ここで字下げ終わり]
朝ごとに一つ二つと減り行くに何が殘らむ矢車の花
俛首れてわびしき花の※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜《をだまき》は萎みてあせぬ矢車の花
風邪引きて厭ひし窓もあけたればすなはちゆるゝ矢車の花
快き夏來にけりといふが如まともに向ける矢車の花
[#ここから6字下げ]
五月十日、復た草の花もて來てくれぬ、鐡砲百合とスウヰトピーなり、さきのは皆捨てさせて心もすが/\しきに[#「すが/\しきに」は底本では「すが/″\しきに」]、いつのまにか大きなる百合の蕾ひそかに綻びたるに
[#ここで字下げ終わり]
心ぐき鐡砲百合か我が語るかたへに深く耳開き居り
[#ここから6字下げ]
十一日の夜に入りはじめて百合のかをりの高きを聞く、此夜ものおもふことありけるに明日の疲れおそろしければ、好まざれども睡眠劑を服す、入院以來これにて二度目なり
[#ここで字下げ終わり]
うつゝなきねむり藥の利きごゝろ百合の薫りにつゝまれにけり
六
[#ここから6字下げ]
病牀にひとりつれ/″\を慰めむと、柾《まさ》といふ紙を求めて四方の壁をいろどりしが
[#ここで字下げ終わり]
壁に貼りしいたづら書の赤き紙に埃も見えて春行かむとす
[#ここから6字下げ]
貧しき人々の住む家なれば、棟にあまた草生ひたれども嘗てとることもなきぞと見ゆるに
[#ここで字下げ終わり]
窓の外は甍ばかりのわびしきに苦菜《にがな》ほうけて春行かむとす
[#ここから6字下げ]
窓の硝子は朝ごとに拭へども、そともは手もとゞかねばいさゝかの曇りなれども晴るゝこともなし、春暮れむとして空さだまらず
[#ここで字下げ終わり]
硝子戸の春の埃をあらはむと雨は頻りに打ち注ぎけり
[#ここから6字下げ]
窓を壓して梧桐の木わだかまれり、はじめのほどに
[#ここで字下げ終わり]
春雨になまめきわたる庭の内に愚かなりける梧桐の木か
[#ここから6字下げ]
とよみおきけるが、今は梢のさやぎも著しく
[#ここで字下げ終わり]
窓掛はおほにな引きそ梧桐の嫩葉の雨はしめやかに暮れぬ
[#ここから6字下げ]
藁蒲團のかたへゆがみたるに身を横たふることも、餘りに日のかさなればその單調なるにたふべくもあらず、まして爽かなる夏の既に行きいたれゝば
[#ここで字下げ終わり]
梧桐の夏をすがしみをり/\は疊の上にねまく欲りすも
[#ここから6字下げ]
熱少したかけれどもたま/\出でありくこともあり
[#ここで字下げ終わり]
あかしやの花さく蔭の草むしろねなむと思ふ疲れごゝろに
鍼の如く 其の二
一
[#ここから6字下げ]
五月二十二日夜、こゝろに苦惱やみがたきこと起りて眠遂におだやかならず
[#ここで字下げ終わり]
小夜ふけてあいろもわかず悶ゆれば明日は疲れて復た眠るらむ
おそろしき鏡の中のわが目などおもひうかべぬ眠られぬ夜は
よしといへば水には足はひたせどもいたづらにして小夜ふけにけり
すべもなく髪をさすればさら/\と響きて耳は冴えにけるかも
やはらかきくゝり枕の蕎麥殼も耳にはきしむ身じろぐたびに
ゆくりなく手もておもてを掩へればあな煩はし我が手なれども
[#ここから6字下げ]
手紙のはしには必ず癒えよと人のいひこすことのしみ/″\とうれしけれど
[#ここで字下げ終わり]
ひたすらに病癒えなとおもへども悲しきときは飯減りにけり
[#ここから6字下げ]
窓外を行く人を見るに、既に夏の衣にかへたるがおほし
[#ここで字下げ終わり]
咳き入れば苦しかりけり暫くは襲ねて居らむ單衣欲しけど
[#ここから6字下げ]
藁蒲團に身をいたはることも七十日にあまりたれど、自らいくばくも快きをおぼえず
[#ここで字下げ終わり]
頬の肉落ちぬと人の驚くに落ちけるかもとさすりても見し
いぶせきに明日は剃らなと思ひつゝ髭の剃杭のびにけるかも
二
[#ここから6字下げ]
物質上の損失はおほくは同情者の手によりて容易に補給せらるべきも、精神上の缺陷は同情者の手によりて凡て直ちに解決せらるべきものなるべからず、如何に深厚の同情と雖も其効果は概ね甚だ僅少なるべきなり、然れども其効果の僅少なるが爲めに遂に人間至高の價値を没却すべからず
[#ここで字下げ終わり]
いさゝかのことなりながら痒きとき身にしみて人の爪ぞうれしき
[#ここから6字下げ]
健康者は常に健康者の心を以て心となす、もとより然るべきなり、只羸弱の病者に莅む時といへどもいくばくも異る處なきが如きものあるを憾みとすることなきにあらず
[#ここで字下げ終わり]
すこやかにありける人は心強し病みつゝあれば我は泣きけり
三
[#ここから6字下げ]
病院の一室にこもりける程は心に惱むことおほくいできて自らもまなこの窪めるを覺ゆるまでに成りたれば、いまは只よそに紛らさむことを求むる外にせむ術もなく、五月三十日といふに雨いたく降りてわびしかりけれどもおして歸郷す
[#ここで字下げ終わり]
垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども
小さなる蚊帳もこそよきしめやかに雨を聽きつゝやがて眠らむ
蚊帳の外に蚊の聲きかずなりし時けうとく我は眠りたるらむ
[#ここから6字下げ]
三十一日、こよひもはやくいねて
[#ここで字下げ終わり]
廚なるながしのもとに二つ居て蛙鳴く夜を蚊帳釣りにけり
鬼灯《ほゝづき》を口にふくみて鳴らすごと蛙はなくも夏の淺夜を
なきかはす二つの蛙ひとつ止みひとつまた止みぬ我《あ》も眠くなりぬ
短夜の淺きがほどになく蛙ちからなくしてやみにけらしも
[#ここから6字下げ]
夜半月冴えて杉の梢にあり
[#ここで字下げ終わり]
小夜ふけて厠に立てば懶げに蛙は遠し水足りぬらむ
[#ここから6字下げ]
六月一日、あたりのもの凡ていまさらに目にめづらしければ出でありく
[#ここで字下げ終わり]
麥刈ればうね間/\に打ちならび菽は生ひたり皆かゞまりて
[#ここから6字下げ]
幼きものゝ仕業なるべし
[#ここで字下げ終わり]
垣根なるうつ木の花は扱き集《つ》めてぞろりと土に棄てられにけり
[#ここから6字下げ]
夕近くして雨意おほし
[#ここで字下げ終わり]
雨蛙しきりに鳴きて遠方の茂りほの白く咽びたり見ゆ
いさゝかは花まだみゆる山吹の雨を含みて茂らひにけり
[#ここから6字下げ]
二日、雨戸あくるおとに目さむ
[#ここで字下げ終わり]
おろそかに蚊帳を透かしてみえねどもしづく懶く外は雨なりき
[#ここから6字下げ]
やがてしげくふりいづ
[#ここで字下げ終わり]
つく/″\と夏の緑は快き杉をみあげて雨の脚ながし
[#ここから6字下げ]
泥のぬかり足駄の齒にわびしけれど心ゆくばかりのながめせんとてまたいでありく
[#ここで字下げ終わり]
鉈豆のもの/\しくも擡げたるふた葉ひらきて雨はふりつぐ
車前草《おほばこ》は畑のこみちに槍立てゝ雨のふる日は行きがてぬかも
[#ここから6字下げ]
庭の枇杷ことしばかりはめづらしく果おほし
[#ここで字下げ終わり]
枇杷の木にみじかき梯子かゝれどもとるとはかけじいまだ青きに
[#ここから6字下げ]
雨をよろこぶこゝろを
[#ここで字下げ終わり]
蕗の葉の雨をよろしみ立ちぬれて聽かなともへど身をいたはりぬ
[#ここから6字下げ]
我が草苺を好むこと度を知らずともいひつべし、未だ甚だしく體力の衰へざりし程は一度に五合にのぼらざれば胸の爽かなるを覺えず、然かも日に幾たびとなくこれをくりかへして飽くこともなかりき、さるをことしは家を離れて久しくなりけるに市場に出でたるは嘗て手にだも觸れむとせざれば、日頃はさびしくあかしけるが、いまはうれしきは門の畑なり
[#ここで字下げ終わり]
たらちねは笊もていゆく草苺赤きをつむがおもしろきとて
幾度か雨にもいでゝ苺つむ母がおよびは爪紅をせり
草苺洗ひもてれば紅解けて皿の底には水たまりけり
[#ここから6字下げ]
三日微雨、人にあふこといできにたれば車に幌かけて出づ、鬼怒川をわたる
[#ここで字下げ終わり]
みやこぐさ更紗染めたる草むしろしづかにぬれて霧雨ぞふる
口をもて霧吹くよりもこまかなる雨に薊の花はぬれけり
鬼怒川の土手の小草に交じりたる木賊の上に雨晴れむとす
[#ここから6字下げ]
四日、晴れて俄に暑し、風邪引くことのおそろしくてためらひ居けるを、いまはなか/\に心も落ちゐたれば單衣になる
[#ここで字下げ終わり]
とりいでゝ肌に冷たきたまゆらはひとへの衣つく/″\とうれし
くつろぐと足を外に向けころぶせば裾より涼し只そよ/\と
さやげども麥稈帽子とばぬ程みむなみ吹きて外はすが/\し[#「すが/\し」は底本では「すが/″\し」]
[#ここから6字下げ]
暑きころになればいつとても痩せゆくが常ながら、ことしはまして胸のあたり骨あらはなれど、單衣の袂かぜにふくらみてけふは身の衰へをおぼえず、かゝることいくばくもえつゞくべきにあらざれど猶獨り心に快からずしもあらず
[#ここで字下げ終わり]
單衣きてこゝ
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング