ろほがらになりにけり夏は必ず我れ死なざらむ

    鍼の如く 其の三

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六月九日夜、下關の港にて
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うつら/\髪を刈らせて眠り居る足をつれなく蚊の螫しにけり

鋏刀もつ髪刈人は蚊の居れどおのれ螫さえねば打たむともせず

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四日間の旅を經て十日といふに博多につく、十一日朝、千代の松原をありく
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夏帽の堅きが鍔に落ちふれて松葉は散りぬこのしづけきに

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十二日
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※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]の中に瞼《まなぶた》とぢてこやれども蚊に螫され居し足もすべなく

蚊の螫しゝ足を足もてさすりつゝあらぬことなどおもひつゞけし

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十四日
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脱ぎすてゝ臀のあたりがふくだみしちゞみの單衣ひとり疊みぬ

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此の夜いまさらに旅の疲れいできにけるかと覺えられて
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ちまたには蚤とり粉など賣りありく淺夜をはやく蚊帳吊らせけり

低く吊る※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]のつり手の二隅は我がつりかへぬよひ/\毎に

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十七日、日ごろ雨の中を病院へかよひゐけるが此の日は殊にはげしく降りつるに、四日間の汽車の窓より見て到るところおなじく輕快にして目をよろこばせしもの只夥しき茅花のみなりけるをなつかしく思ひいづることありて
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稚松の群に交りて戯れし茅花も雨にしをれてあるらむ

はろ/″\に茅花おもほゆ水汲みて笊にまけたる此の雨の中に

泣くとては瞼《まぶた》に當つる手のごとく茅花や撓むこのあめのふるに

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病室みな塞りたれば入院もなり難く、久保博士の心づくし暫くは空くして雨にぬれて通ふ
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すみやけく人も癒えよと待つ時に夾竹桃は綻びにけり

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廿日、漸くいぶせき旅宿をいでゝ病院の一室に入る、二日三日の程にくさ/″\聞き知りて馴れ行く、病院の規模大なれば白衣の看護婦おびたゞしく行きかふ、皆かひ/″\しく立ちはたらくところ服裝のためなればか年齢の相違のごときも俄にはわかち難く、すべて男性的に化せられたるが如く見ゆれども
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たま/\は絣のひとへ帶締めてをとめなりけるつゝましさあはれ

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廿四日夜、また不眠に陷る
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いづべゆか雨洩りたゆく聞え來てふけしく夜は沈みけるかも

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小松植ゑたる狹き庭をへだてゝ外科の病棟あり、痛し/\といふかなしき呻きの聲きこゆ
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夜もすがら訴へ泣く聲遠ぞきて明けづきぬらし雨衰へぬ

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廿五日、ベコニヤの花一枝を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し換ふ、博士の手折られけるなり、白き一輪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]は同夫人のこれもベコニヤの赤きを活けもておくられけるなり、廿六日の朝看護婦の※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]を外していにけるあとにおもはぬ花一つ散り居たり
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悉く縋りて垂れしベコニヤは散りての花もうつぶしにけり

ちるべくも見えなき花のベコニヤは※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]の裾などふりにけらしも

ベコニヤの白きが一つ落ちにけり土に流れて涼しき朝を

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寢臺の下のくらきを拂ふこともなく看護婦のよひごとに釣りければ蚊帳の中に蚊おほくなりて、此の夜もうつらうつらとしてありけるほどふけゆくまゝに一しきり交々襲ひきたれるに驚く
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ひそやかに蟄さむと止る蚊を打てば手の痺れ居る暫くは安し

聲掛けて耳のあたりにとまる蚊を血を吸ふ故に打ち殺しけり

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七月一日、朝まだきにはじめて草履はきておりたつ、構内に稍ひろき松林あり、近く海をのぞむ
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月見草萎まぬ程と蛙鳴く聲をたづねて松の木の間を

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柵の外には畑ありて南瓜つくることおほし、我酷だこの花を愛す
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唯ひとり南瓜畑の花みつゝこゝろなく我は鼻ほりて居つ

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前後に人もなければ心も濶き松の林に白き浴衣きたりけることの故はなくして只矜りかにうれしく
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朝まだきまだ水つかぬ浴衣だに涼しきおもひ松の間を行く

只一つ松の木の間に白きもの我を涼しと膝抱き居り

ころぶしてみれば梢は遙かなり松がさか動くその雀等は

松蔭の蚊帳釣草にころぶしていさゝか痒き足のばしけり

かくのごと頬すりつけてうなづけば蚊帳釣草も懷しきかも

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窓外
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ポプラーと夾竹桃とならびけり甍を越えてポプラーは高く

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四日深更、月すさまじく冴えたり
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硝子戸を透して※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]に月さしぬあはれといひて起きて見にけり

小夜ふけて竊に蚊帳にさす月を眠れる人は皆知らざらむ

さや/\に※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]の殺げばゆるやかに月の光はゆれて涼しも

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目さめてさま/″\のことを思ふ
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かゝるとき扁蒲畑《ゆふがほばた》に立ちなばとおもひてもみつ今は外に出でず

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七日
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よひ/\に必ずゆがむ白蚊帳に心落ちゐて眠るこのごろ

白蚊帳に夾竹桃をおもひ寄せ只快くその夜ねむりき

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厭はしきは※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]の中の蚊なり
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はかなくもよひ/\毎に蚊の居らぬ※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]なれかしとおもひ乞ひのむ

    鍼の如く 其の四

     一

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七月十七日、構内の松林を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]す、煤煙のためなればか、梢のいたく枯燥せるが如きをみる
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油蝉乏しく松に鳴く聲も暑きが故に嗄れにけらしも

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いづれの病棟にもみな看護婦どもの其詰所といふものゝ窓の北蔭にさゝやかなる箱庭の如きをつくりてくさ/″\の草の花など植ゑおけるが、夕毎に三四人づゝおりたちて砂なれば爪こまかなる熊手もて掃き清めなどす、十九日のことなり
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水打てば青鬼灯の袋にも滴りぬらむ黄昏にけり

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かゝる時女どもなればみな/\さゞめきあへるが、ひとり我がために撫子の手折りたるをくれたれば
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牛の乳をのみてほしたる壜ならで※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]すものもなき撫子の花

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此のをみなすべてのものゝ中に野にあるなでしこを第一に好めるよしいひければ
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なでしこの交れる草は悉くやさしからむと我がおもひみし

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壜に活けたるまゝにして
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なでしこの花はみながらさきかへて幾日へぬらむ水減りにけり

なでしこはいまは果敢なき花なれど捨つと言にいへばいたましきかも

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二十日の夜ひとつには暑さたへがたくして夜もすがら眠らず、明方にいたりて蛙の聲を聞く
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快くめざめて聽けと鳴く蛙ねられぬ夜のあけにのみきく

さわやかに鳴くなる蛙たとふれば豆を戸板に轉ばすがごと

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朝のうち必ず一しきりはげしく咳出づることありて苦しむ
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曉の水にひたりて鳴く蛙涼しからんとおもひ汗拭く

     二

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蚊帳釣草を折りて
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暑き日はこちたき草をいとはしみ蚊帳釣草を活けてみにけり

こゝろよく汗の肌にすゞ吹けば蚊帳釣草の髭|殺《そよ》ぎけり

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夜になれば我がためにのみは必ず看護婦の來て※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]をつりてくるゝが例なり
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※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]釣るとかやつり草を外に置くが務めなりける我は痩せにき

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燬くが如き日てりつゞけばすべての病室のつきそひの女ども只洗濯にいそがはし
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粥汁を袋に入れて糊とると絞るがごとく汗はにじめり

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おもひ待てども蝉の聲をきかず
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板のごと糊つけ衣夕まけて松に乾けど蝉も鳴かぬかも

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庭の松の蔭に午後に成れば朝顔の鉢をおくものあり、他の病室の患者の慰めなりといへどもひとの枕のほとり心づかざれば未だみしこともなく
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朝まだき涼しき程の朝顔は藍など濃くてあれなとぞおもふ

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僅に凌ぎよきは朝まだきのみなり
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蚤くひの趾などみつゝ水をもて肌拭くほどは涼しかりけり

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夕に汗を流さんと一杯の水を被りて
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糊つけし浴衣はうれし蚤くひのこちたき趾も洗はれにけり

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涼味漸く加はる
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松の木の疎らこぼるゝ暑き日に草皆硬く秋づきにけり

     三

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二十三日、久保博士の令妹より一莖の桔梗をおくらる、枕のほとり俄かに蘇生せるがごとし
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さゝやけきかぞの白紙爪折りて桔梗の花は包まれにけり

桔梗の花ゆゑ紙はぬれにけり冷たき水の滴れるごと

桶などに活けてありける桔梗《きちかう》をもたせりしかば紙はぬれけむ

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目をつぶりてみれば秋既に近し
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白埴の瓶に桔梗を活けしかば冴えたる秋は既にふゝめり

しらはにの瓶にさやけき水吸ひて桔梗の花は引き締りみゆ

桔梗を活けたる水を換へまくは肌は涼しき曉《あけ》にしあるべし

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我は氷を噛むことを好まざれど
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暑き日は氷を口にふくみつゝ桔梗は活けてみるべかるらし

氷入れし冷たき水に汗拭きて桔梗の花を涼しとぞみし

すべもなく汗は衣を透せどもききやうの花はみるにすがしき

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廿四日の夕なり、たま/\柵をいでゝ濱邊に行く、群れ居る人々と草履ぬぎて淺き波にひたる、空の際には暗紫色の霧のごときがたなびきたるに大なる日落ちかゝれり、凝視すれども眩からず、近くは雨をみざる兆なり
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抱かばやと没日のあけのゆゝしきに手圓《たなまど》さゝげ立ちにけるかも

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渚をとほく北にあたりて葦茂りて草もおひたれば行きて探りみんとおもへどこのあたり嘗てなでしこをみずといひにければ
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おしなべて撫子欲しとみえもせぬ顔は憂へず皆たそがれぬ

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構内にレールを敷きたるは濱へゆくみちなり、雜草あまたしげりて月見草ところ/″\にむらがれり、一夜きり/″\すをきく
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石炭の屑捨つるみちの草村に秋はまだきの螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]なく

きり/″\すきかまく暫し臀据ゑて暮れきとばかり草もぬくめり

きり/″\すきこゆる夜の月見草おぼつかなくも只ほのかなり

白銀の鍼打つごとききり/″\す幾
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