らこれでは寺泊へ行けるらしい。最初の目的が達せられるかと思ふと心中窃に悦ばしさを禁じえなかつた。あんまり彌彦山が近くなつて居たと思つたのも道理であつた。寺泊へついたのは五時頃である。磯へつくと船はぐるつとめぐされて艫が波打際まで突きあがる。余は笠と※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、376−6]を投げ出して草鞋と荷物とを手に提げたまゝ波の引いた途段に磯へ飛びおりた。一日の航海中牛は逐に一聲も鳴かなかつた。
 佐渡を見ると悠然として海を掩うて長く横はつて居る。大きな馬盥に水を一杯に汲んで鍋葢を浮べれば鍋葢のとつ手を横から見たのが佐渡が島である。鍋の底から燃えあがつた焔のやうな夕燒の空が佐渡を包んで平穩な海一杯にきらめいて居る。佐渡は余がためには到底忘れられぬ愉快な境であつた。三日は雨であとの一日丈が晴れたのであるが其雨の日に相川の金坑を見てこんなことがあつた。初めは工場の殺風景に驚いたのであつたが泥を溶いたやうに濁つた濁川といふ小さな溪流の岸に沿うて行くと高い支柱を建てゝ大きな箱戸樋が連つて居る。箱戸樋は溪流について屈折して走る。所々僅に紅した蔦の葉が支柱に絆んで戸樋を偃うて居る。
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