\押し歩いちやあ足袋も草履も一晩しか持たねえんだよ」
 聽き手があればしみ/″\とこぼした。村の同情は此のお袋の一身に集つた。事件の推移はこんな風で卵屋が業を煮やすことのある外表面甚だ平靜のうちに時日が經過して行く。
 世間は復た春が蘇生つた。鬼怒川の土手の篠の上には白帆を一杯に孕んで高瀬船が頻りにのぼる。船頭は胡座をかいた儘時々舵へ手を掛けただけで船は舳がぢやぶ/\と水に逆つてのぼつて行く。冬の辛さがこゝで一度に取り返されるので此の南風の味を占めては迚ても職業がやめられぬといふ時節である。篠の中には鳥馬《てうま》がそつちへこつちへ移りながら下手な鳴きやうをして菜の花から麥畑へ遊びに出る。兼次は此時輸卒として召集された。本來ならば自分の家からほろ醉になつた人々に送られて鬼怒川の渡しへかゝる筈であるのだが彼は變則にも其假住居から立つて行かなければならぬことに成つた。其朝彼は自分の家の近所へだけは暇乞に出た。其態度は狼狽して居た。隣の家では土間へ置いた汁鍋がひつくりかへつて居たので不審に思つて居たが、あとで兼次が隣のうちの「バケツ」を引つくりかへして來たといつたのを聞いたのでそれが兼次の仕
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