ないであらうと想像せられる。七十三といふ老年であるにも拘らず山坂を踏んでは壮者も及ばぬといふ元気が其容貌と態度とに表はれて居る。火縄銃を執つて分け入る時凡そ如何なる野獣でも適当の距離に於て彼の目に入つて其筒先に斃《たお》れないものはなかつた。彼は又木を攀ぢて野獣の徘徊するを求めることがあつた。獲物が近づいて来ればそれまでゞである。其獲物が一旦方向を転ずるか物に怖れて疾走する時彼は一躍して之を追うて咄嗟《とつさ》に一丸を放つ。若《も》し一度でもそれが徒労であつたならば信州第一の名を博する所以ではない。或時子を連れた女熊が木の実を求めて橡《とち》の大樹を攀ぢつゝあるのを発見した。熊は悉《ことごと》く其樹を下る余裕を与へられなかつた。熊は三個の屍躰を其樹下にならべた。又熊が前肢を挙げて搏撃《はくげき》せんとして迫つて来た時は、彼は橡の大樹を繞《まと》つて遁げながら其狙が敵の咽喉部を貫いたことがあつた。それが一発毎に銃口から火薬を装填する火縄銃の操縦である。絶倫の技倆は兄弟共に松代侯の知る処となつて其|扶持《ふち》を受けて居た。自分はこれだけのことを彼に逢ふ前に聞いて居たのである。さうして親し
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