て見ることが出来ないと云つた。鶴爺さんは数へ切れぬ野獣を打つて一方には藩主の保護をも受けて居た身でありながら今は此の如き陋屋《ろうおく》に燻《くす》ぶつて居るのである。老後の為めには彼は無益に其絶倫の技倆を発揮して居たのであると思ふと此の岩畳《がんじよう》な老夫が寧ろ哀れつぽくなる。然し鶴爺さんの渾身は信州人が有する勇悍なる気性の結晶である。渋に此の如き猟夫の有つたことを伝ひ得れば彼の為めには十分である。野獣の絶滅と共に将来|復《また》た彼が如き猟夫を見ることは不可能でなければならぬ。彼は彼等の社会に於ける最後の光明である。
 彼が語つた少時の功名は自分をして更に長く彼を忘れしめないであらう。それは彼が十三の秋であつた。彼の母が非常に「シラクチ」の実を好んだので時々それを採りに行つた。「シラクチ」の実は熟すと自然に酒の味がして佳味《うま》い。或日火縄銃を担いで山を分けて行つた。彼は父なるものが猟夫であつたので鉄砲持てるやうになつてからは自然山鳥などを打つて遊んで居たのであつた。シラクチの実を採ろうと思つて居るとがさ/\と近くに響を立てるものがある。凝然としてすかして見ると大きな黒いものがのそり/\と動いて居る。直ちに鉄砲を取り直して火蓋を切ると只一発で転がつた。斃れたのは三十余貫の熊であつた。野獣を打つたのはそれが始めてゞあつたといふのである。十三才の少年には長い火縄銃は立てたら其身に余つたであらう。其火縄銃を肩にして行く処は其天与の大胆な気性がなかつたとしたならばそれは余りにいた/\しいことでなければならぬ。さう思つて見ると散り乱れた黄色な木の葉を踏んで樹蔭に身を寄せながら熊をすかして見て居る少年の姿が見えるやうである。それを聞いた時自分はすぐにシラクチといふのはどんなものかと聞いた。それは樹に絡つて白い花がさくのだといつた。自分は其後ふと嘗《かつ》て見た白い点の聚りのやうな花を思ひ出した。さうして霧の中に白い柱の如く立つて居た其花と同一ではないかと思つた。然しそれは鶴爺さんのいふシラクチといふものであるかないか、又其地方でいふシラクチといふものが植物学者によつて知られて居る名であるかないか、自分はちつとも知る所がない。例令《たとい》自分の聯想《れんそう》が誤つて居たとしても自分は霧の中の白い柱のやうな花と其シラクチを分離せしめたくはない。自分は鶴爺さんの噺から到
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