しらくちの花
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)罩《こ》めた
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)其|扶持《ふち》を
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しみ/″\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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明治卅六年の秋のはじめに自分は三島から箱根の山越をしたことがある。箱根村に近づいて来た頃霧が自分の周囲を罩《こ》めた。霧は微細なる水球の状態をなして目前を流れる。冷かさが汗の肌にしみ/″\と感じた。段々行くと皿程の大さの白いものが其霧の中に浮んで居るやうに見えた。それが非常に近く自分の傍にあるやうに思はれた。軈《やが》て霧はからりと晴れた。さうして自分を愕《おどろ》かした。青草の茂つた丘がすぐ鼻の先に立つて居た。白いのは青草に交つた百合の花であつた。近く見えたのも道理で、二三歩にして手が届くのである。百合の白さは到底霧のために没却されるものでないといふことを此の時自分は知つたのである。自分は又明治卅九年の夏のはじめに磐城の平から五月雨の中を番傘さして赤井嶽へ登攀したことがある。霧は番傘のうらまで湿した。行手に当つて時々樹木が霧の間から現はれる。樹木は大分栗の木があつたやうで、ぼんやりと白いものが大きく見えたと思ふと遠い処から大急ぎで自分のすぐ前へ駈けて来たやうに太い幹がひよつこりあらわれる。遥かなる足の底の方に鴨のやうな声が幽かに然《し》かも鋭く聞えた。やがて声は更に幽かに別の方向から聞えた。梢から枝へ移つたのであらうと思つて居ると、又さつきのあたりで悲しげな声を立てた。そこには深い谷があると見えて霧は更に白く鬱積して居る。自分は見えもせぬ谷を見おろした。ぼんやりと白い大きなものが其所にも見えた。歩を進めるに従つてそれは隠れて又更に其白い大きなものが現はれる。それは花になつた栗の木の梢であつた。栗の木さへ其白い花は他の幹や枝の如く霧のために隠されるものではないのである。霧の中の白い花といふことは自分に深い興味を与へるやうになつた。
其の後、塩原から尾頭峠を越えた人の噺《はなし》を聞いた。それは霧の中であつたといつた。あたりを閉して居た霧がうすれて樹木がぼんやりと見える時白い点のやうなものを以てびつしりと装うた樹があり/\と見えた。それが只白い霧の中に注意
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