いて行きました。それは、わたしの性格の弱さをも物語るものであり、その弱い性格を防護するために自然に展開してきた生活態度であつたと思はれます。
明治三十九年に、堺利彦君が主唱で日本社會黨を組織しましたが、そして堺君自ら來訪して懇切に入黨を勸誘してくれましたが、私は遂にその時は入黨しませんでした。最初の平民社が解散して、西川光次郎、堺利彦、幸徳傳次郎等の諸者は『光』を發行し、私は安部磯雄、木下尚江の兩先輩の驥尾に付して『新紀元』を發行してゐた際であつたので、これに入黨することは兩派を融和するに好機會を與へるものと考へながら、私には入黨することが出來ませんでした。わたしは『新紀元』で『政黨は、革命主義の運動には害こそあれ、有用のものではない』『政黨は、小才子、俗物が、世話、奔走、應接の間に胡麻をするに宜しき所なり』などと論じてゐますが實は心の弱い自分の本命を貫徹するために政黨を毛ぎらひした傾きも有つたかと思ひます。
平民社の思想
「君が内省的になつた結果、政黨の運動をきらふやうになり、やがてそれが君を無政府主義に傾かしたのであらう。面白いぢやないか?」
ルクリュ翁は興味深げ
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