ない藝たうだ。けれどもこの場に及んでは一心不亂であうた。今思つても戰慄を禁じ得ない仕事が事もなく遂行された。環境が私を鍛へてくれたのだ。
「もう大丈夫です。仕事にも慣れ、授かる仕事もいささか昇級のかたちです」
就職して五日目には、壁面に大理石の模樣を付ける少々藝術的な仕事を擔任するやうになつた。かうして私の身體と心とに餘裕ができて來たので、語學の勉強を兼ねて、毎晩マダムとの對話が續けられることになつた。
「あなたが、ここに來られると聞いたので、私はルドビリ・ノドオといふ人の『近代日本』を讀みました。その中に、あなたの名も出てゐる。イシカハ・ケンといふ地方名もある。縣名を姓にする位だから、あなたの家の家がらは地方の貴族なのでせう?」
といふマダムの質問が出たのもその時だつた。なるほど『近代日本』には、日本の社會不安を序した章に、ニシカハ及びイシカハの『日本社會黨』が解散を命ぜられたことが書かれ(これは何かの間ちがひであらう)すぐその次の頁にイシカハ・ケンの紡績工のストライキが述べられてある。
「いえ、私の家は地方の農家です」
と答へれば、マダムは直ぐに言ふ。
「それではペイザン・ア
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