間勞働で、どうやら生活の道が立つといふ自信ができたときは『おれもこれで一人前の人間になれた』と私は心中に叫んだ。そして大空に向つて大威張りで腹一ぱいの呼吸ができた。
 この時から私は毎晩、食後の一時間をルクリュ老夫妻とともにすごし、いつもフランス語のけいこを兼ねて、私の身の上ばなしを續けた。しかし私の對話は主としてマダムとの間に行はれ、翁は寧ろ傍聽者の格であつた。わたしはこれから、その時の物語を思ひ出づるまにまに再記して見たい。今はなきルクリュ翁夫妻の思ひ出ともなり、私にとつてはまた感慨の盡きぬものがある。

     ことばの失敗

「どうです? 少しは慣れましたか?」
 勞働生活を始めてから五日目頃、晩餐後の團欒時のマダムの發言であつた。最初に當てられた私の仕事は兩梯子の頂上に立つて高い天井に下塗りをすることであつた。左手に白色ペンキを滿たしたバケツをさげ、右手に大きな刷毛を持つて、毎日十時間も左官の仕事をすることは、私にとつては可なりの苦痛であつた。最初の二三日は發熱して夜分もよく眠れなかつた。殊に梯子の頂上に立つ足の緊張とその疲勞は甚だしかつた。一度すべれば生命はなくなる。あぶ
前へ 次へ
全127ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 三四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング