出してゐましたが、あまり長くはつづかなかつたやうです。管野の問題で、だいぶ非難があり、青年たちが幸徳からはなれるといふことを聞いたので、わたしは、それについて文を書かうと思ひ立ちましたが、幸徳が、かへつてめいわくらしく見えたのでやめました。
 わたしは巣鴨獄中で書いた『西洋社會運動史』のノートを整理清書することに精力を集中し、四十二年二月(一九〇九年)には、やうやく大體でき上つたので、どこかで出版したいと思ひ、いろいろの人に頼んでみたが結局だめでした。福田徳三君、河上肇君といふやうな連中も紹介の勞をとつてくれたのですが、本やといふ本やは、身ぶるひして、いやがつた樣子です。大町桂月氏は原稿を見て非常に感激した樣子で、博文館の大橋に談じてみませうと、原稿を持つてゆきましたが、やはりだめでした。この記念の書がやつと日のめをみたのは、大正二年元旦のことで、ある同情ある知人の出資によつて出版することができたのであります。
 さてその間に、わたしはまた、第二の筆禍事件にぶつかりました。それは『墓場』と題する『世界婦人』紙上のわたしの文章であります。どういふことを書いたのか、記憶してゐませんが、『こ
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