オニ河域、其昔聖者フエネロンを出し、近く碩学エリイ、エリゼ、オネシム、ポオル等のルクリユ四兄弟を出し、社会学者のタルドを出した此渓流は、到処《いたるところ》に古いシヤトオと古蹟とあり、気候も温暖にして頗る住居に好い処であつた。殊に私の居を定めたドム町は、四面断崖絶壁を繞らした三百メートル以上の高丘上に建てられた封建城市で、今も尚ほ中古の姿を多く其儘に保存した古風な町である。渓間の停車場で下車し、馬車を持て出迎へられたマダム・ルクリユに伴はれて、特に馬車を辞して蜿々《ゑん/\》たる小径を攀《よ》じ登つた時、其れは真に「人間に非ざる別天地」である、と私は感歎せざるを得なかつた。忘れもせぬ、其れは一九一六年六月十一日であつた。
「貴方の来るのを毎日待つて居たのですけれども、到頭待ち切れないで、近所の子供に採らせて了いました」
 可なりに荒れて居る庭園を私に示しながらマダムは大きな二本の桜の木を見上げてコウ言つた。
「何と甘いのだつたか、其れは想像も出来ないほど美味いのでした。貴方に味つて戴けないのは残念でした」
 戒厳地帯の旧住居を去るには、厳重な複雑な手続を経て旅券を交附されねばならなかつ
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