来の漠然たる「円満な人物」或は「人格者」といふ様なものは、自由な平等な無強権な社会生活には一種の不具者として寧ろ影をひそめるであらう。社会生活に於ける何等かの労務に服さない英雄的賢人的「人物」や「人格者」は強権時代、階級時代、英雄崇拝時代の遺物に過ぎない。
分業による差別性によつて社会連帯性が益々鞏固になるといふデユルケムの説に対しては些かの反対意見がある。シヤルル・ジイド教授の如きはその一人だ。ジイドは「かうした差別の真理を否定しないにしても、吾々はその類似による連帯性の軽視や、差異による連帯性への乗気を正しいとは思はない。吾々は寧ろ反対に、類似性こそ連帯の為に未来を持つものであることを希望する」とて社会の各方面に於て、階級間にも、地方間にも、風俗や、言葉や、心の持方まで、旧来の差異が薄らいで益々近似すべく進んでゐると説く。そしてデユルケムは吾々の社会的結合の模型を労働組合に採らうとするに対して、ジイドはこれを消費組合に採らうとする。(ジイド、リスト共著『経済学説史』七一〇頁―七一一頁)
○ 差別と平等
デユルケムも人間の類似による結合を無視した訳ではない。「同類相
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