仕事というものをやってはいけないらしい、と言って僕に話したことがある。それを又親父はとても律儀に考えて、何もかも自宅でやる仕事は一切止めにしてしまった。
 自分の仕事をすると何んでも規則違反だと考えて、一時親父は学校以外の個人的な制作はみんな断って終った。ところが規則はそれほどまでに厳重なものではないということが後で判り、また今迄のを取消して仕事を始めたりなど、実に滑稽《こっけい》であった。
 その頃黒田さんなどが新しい西洋画を描く機運をつくり、白馬会が名乗りをあげたり、一方では太平洋画会などが人気があった。白馬会は当時既に相当の会員を擁しており久米桂一郎先生、黒田清輝先生、藤島武二先生、長原孝太郎先生などと、これらの会の出来たことは急速に洋画壇の進歩をもたらせた。彫刻の方はちょうど其頃泥、粘土を使ってやる塑造科が出来た。木彫の生徒もそれを研究しなければならない。塑造科の先生は長沼守敬先生で、伊太利《イタリー》からかえって日本でさかんに銅像の研究を進めておられた。長沼先生の教室には武石弘三郎さん一人で、先生一人生徒一人のその教室を覗きながら羨《うらやま》しく思ったりした。長沼先生はどう
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