いうものか間もなく喧嘩《けんか》をして学校を辞めて仕舞った。その後に藤田文蔵先生が来て、僕らの木彫の方でもモデルを使って塑造をやることになり、初めてモデルを使うという期待は大へんなものであった。
 例の宮崎幾太郎の阿母さんのモデル婆さん、あれは一番初めに自分でモデルになったので、自分がモデルの株を持っていたわけだが、婆さんも次第に忙しくなり、自分の仲間の娘やお上さん、そのうちには男のモデルまで連れてくるようになった。木彫科の使った男の最初のモデルというのは俥屋で随分と滑稽なこともあった。よく覚えているが、山田鬼斎先生の教室にそのモデルの俥屋が婆さんに連れられてやってきた。此時は塑造台を新調してその俥屋のモデルを迎えたのであるが、彼は裸体になっても下帯を取らないでがん張っている。鬼斎先生がみんな取ってしまえと談判を始めた。学生はじっとその様子を眺めている。俥屋は初めそんな約束ではなかったと言い、何んでもよいから裸体になってしまえ、それでは御開帳をするのですか、そうだ、と押問答の末とうとう裸にさせてしまった。こんなわけだからモデルになった者は優遇して逃がさぬようにしたのである。ところがその
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