美術学校時代
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)齢《とし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五分|芯《しん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
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 僕は江戸時代からの伝統で総領は親父の職業を継ぐというのは昔から極っていたので、子供の時から何を職業とするかということについて迷ったことはなかった。美術学校にも自然に入ってしまった。二重橋前の楠公の銅像の出来上ったのは明治二十六年頃で僕が十一歳の時であり、美術学校に入ったのは明治三十年の九月だったから齢《とし》でいえば十五歳であった。
 その頃の世の中は学校の規則なども非常に楽なもので、願書の上でだけ何歳と書いておけば入学が出来たので、早い方が良いということから歳の多い者の中に子供みたいな僕が飛込んでしまった。その頃の美術学校の制服というのはちょうど王朝時代の着物のような、上着は紺色の闕腋《けってき》で、頭には折烏帽子《おりえぼし》を被《かぶ》り、下には水浅葱《みずあさぎ》色の段袋を穿《は》くという、こ
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