れはすべて岡倉覚三先生の趣味から来たものであったが、どうも初めそれを着るのが厭《いや》で気羞《きはず》かしくて往来を歩けないような気がしたのであった。その頃はいつも絣《かすり》の着物に小倉の袴《はかま》を着けて居ったので、この初めの制服は何となく厭でならなかった。
それに代って洋服の制服が出来たのは僕が三年生の時で、何でも正木直彦先生が校長になって以来今の制服になったように記憶する。
当時の美術学校は始めの一年が予科で本科が四年、五年で卒業ということになっていた。始めの一年の予科は皆おなじ学習をやり、その一年間やった学習の中で自分の気にいった科を選んで本科に入る。それから後四年間やって卒業するのである。僕は洋画の方はやらないで日本画をやらせられた。それから彫刻をやった。予科のうちは方々の教室に入って日本画もやり彫刻もやるという風であった。
その当時の日本画科の先生には橋本雅邦、川端玉章、川崎千虎、荒木寛畝(今の十畝さんのお父さん)それから小堀鞆音等がいた。彫刻の方では僕の親父高村光雲、外に石川光明、竹内久一両先生、この三人くらいであった。木彫の方には助教授の林美雲先生などが居られ
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