であった。
 岡倉先生がいなくなってから二三の校長を経て正木直彦先生が文部省から乗込んで来た。正木先生は理性の勝った人で寧《むし》ろ冷たい感じのする人であった。そして学校の内部組織も次第に改革されていった。先生のなかで美術学校の先生くらい扱いにくいものはなかったそうだが、それを正木先生は非常に合理的に一歩一歩黙って変えていったのである。生徒の服装を変えたのも先生だったと記憶する。それまでの闕腋《けってき》と折烏帽子《おりえぼし》を止めにして普通の金釦《きんボタン》にしてしまった。初めに闕腋を恥かしがったのが、今度はこんな金釦になってつまらないという気がしてならなかった。やがて学科目も変り時間なども変えられていった。それまでは学校の先生はお昼頃出てきて一時間もいるとさっさと帰宅したものであったが、それが一週間に二三度くらい出てきた先生も毎日来なければならぬように喧《やか》ましくなり、総て官吏服務規則に拠《よ》って勤めることになった。
 親父がその話を聴いて帰り、何んでも官吏というものは大へん難しい規則があって、学校は朝も帰りも時間があってベルが鳴らないと帰れない。また官吏というのは自分の
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